臨済録から学ぶ 禅の教え

「仏に逢うては仏を殺し。祖に逢うては祖を殺し。父母に逢うては父母を殺し。始めて解脱を得ん」からなる「殺仏殺祖(せつぶつせっそ)」は一度耳にしたことがあるのではないでしょうか?

これは自分を縛るものは自分の中で全て殺せ(手放せ)と言い、解脱の法を説いています。

臨済録は臨済宗の開祖である臨済義玄の教えを弟子がまとめた書物です。

臨済義玄は黄檗を師に持ち、臨済録の序章では師へ殴りかかったり、逆に問いかけてみたりと気が強く、聡明であった人間像が取り上げられています。

そんな臨済義玄の教えは独特で、とにかく一昔風に言うと情熱的です。

さらに臨済録は禅修行者のバイブルと呼ばれ、禅に興味のある方は一読の必要があります。

そんな臨済録、臨済義玄の言葉は現代の私たちの心に強く刺さるのではないかと思います。

正しい考え方を持て

「弥若し能く念念馳求の心を歇得せば、便ら祖仏と別ならず」

これは「絶え間なく起こる欲望を停止できたら、それはもう祖師や仏と同じである」という意味です。

しかし私達人間は、あらゆる環境や対象に惑わされ、教えを信じる事ができなくなり、外の世界に救いを求めてしまします。

そうなってしまっては仏になるまで千回生まれ変わらなければならないと言い、「外に仏はない、内なる自己にこそ仏はある」と説いています。

その内なる仏を三つの仏身と言い

  • 法身仏=一瞬の清浄な輝き
  • 報身仏=一瞬の無分別の輝き
  • 化身仏=一瞬の無差別の輝き

これこそが修業する人間が持つべき正しい考えです。

心に病名をつけるな

「道流よ、山僧が説法、什麼の法をか説く。心地の法を説く。便ち能く凡に入り聖に入り、浄に入り穢に入り、真に入り俗に入る。要且つ是れ你真俗凡聖、能く一切の真俗凡聖の与めに名字を安著するにあらず。 真俗凡聖は、此の人の与めに名字を安著し得ず。 道流よ、把得して便ち用いて、更に名字を書けざるを、之を号して玄旨と為す。」

これは「心はありとあらゆる所に存在するが、それに名前を付けない事が仏の奥義書である」と言った言葉です。

禅は心の問題に重きを置きますが、臨済の説法ではこの心に一切の名前をつけません。

これは老子の「道の道とすべきは恒の道に非ざるなり。名の命づくべきは功の名に非ざるなり。無名は万物の始めなり。有名は万物の母なり。」に通ずる考え方です。  

一方、鈴木大拙はこの心の問題を解決する学問を心学、「処方箋」という意で用いることがあります。

また臨済録ではこの心学を身に着けていないものは「五道」(天道、人間道、畜生道、餓鬼道、地獄道)を回り続けることになると言います。

では心学とは何でしょうか。

それは「外に凡聖を取らず、内に根本に住せず、見徹して、更に疑謬するなきがためなり」

「外に凡人、聖人の区別をせず、内なる心にとどまらず、全てを見破り、疑いを残さない」「全ては無である」「何の条件にも縛られない」「心が揺さぶられない」「仏もない」の域に達することを心学と言います。

まとめ

臨済宗は仏教の基本をさらに、現実に落とし込んでいる宗派であると見受けられます。

「空」「無知の知」仏教には深い教えが多くありますが、そのような教えを求めることさえも業を作っているようなものだと考え、何にも縛られてはいけないと何度も訴えているのです。

私達は人の行動に反応し、人と比べ、人に嫉妬し、自分を卑しめます。

そのような反応自体に意味がない事を理解しても、なかなか実際には実行できないのが人間の業そのものなのでしょう。

禅は時折流行りを生みますが、表面的な話をしているだけで修業者の道に入った人から見れば笑い話であり、失礼にあたるかもしれません。

臨済録を読むことで、自分のちっぽけな認識・考え方ができるようになりましょう。

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