商売の基本 石田梅岩の心学

日本で中江藤樹や熊沢蕃山などの心学は有名です。

その中でも異彩を放つのが石田梅岩の「石門心学」です。

この石田梅岩が残した「都鄙問答」は、後に「経営の神様」と言われた松下幸之助の座右の書として有名です。

今回は石田梅岩の心学について学んで行きましょう。

石田梅岩の生い立ち

1658年丹波国桑田郡東懸村(京都亀岡市)に生まれます。

11歳のころ当時の農家の習わしで京都の呉服屋へ奉公に出されることになりますが、4年ほどで呉服屋の経営が立ち行かず、15歳で再び農家に戻る事となります。

その頃から家業を手伝う傍らで学問に励み、23歳で再び上京の呉服屋「黒柳家」に奉公します。

勤勉正直にして倹約、目下の人間には優しい梅岩は懸命に働きましたが、あまりにも人に気遣いをし、自分に厳しすぎると黒柳家の主人に「少しは遊んではどうか」と叱られてしまいます。

しかし梅岩は「自分が倹約することで、その倹約したことが世の中の役にたつ」と考え、流されることはありませんでした。

そいて35歳の頃、黄檗宗(禅学)の僧である小栗了雲に出会い指導を受け、悟りを開くまでに到りました。※黄檗宗(おうばくしゅう)開祖:隠元(真空大師)本尊:お釈迦様

45歳になると呉服屋を辞め、60歳の生涯を終えるまで私塾を開講し多くの弟子を指南し、死後その活動は全国に広がる程のモノとなりました。

経歴からもわかる通り、彼はサラリーマンであり、人間を追求した人物であると言えます。

石田梅岩は儒教家ではない

石田梅岩は儒教思想家ではない事も頭に入れておかなくては、真に教えを受け取ることはできません。

梅岩が小栗了雲の教えを受けていたことは述べましたが、彼は20代のころ神道に興味があり、さらには梅岩が勤めた黒柳家が浄土真宗の門徒であったことから仏教の教えも学んでいます。

つまり彼の心学は儒教のみを指すのではなく、三教合一のように、あらゆる思想を受け入れて進化した心学であると言えます。しいて言うなら「禅」が梅岩の心学の基本になっているのかも知れません。。。

これは現代でも、日本人が様々な宗教を受け入れる多様性が、見事に実践されているように感じます。

そして彼の心学の最も重要な教えが、「「私ナケレバ無欲二成ル」私欲を取り除き学問の土台とせよ」であり、これが彼を陽明学者と言う由縁ではないかと思います。

三教合一

では三教合一とはどのような考え方でしょうか。

三教合一の考え方は、仏・道・儒の三教が対立したことから、後漢(25年~220年)の末ごろ~三国時代(220年~280年)に始まりましたが、何を中心の教えとするかが定まらず、統一されることはありませんでした。

しかし、とりあえずは三教合一を唐の時代(618年~907年)の公認思想として扱っていました。

日本に目を向けると、中国の思想が入ってきたのは400年代のころから始まります。

587年用明天皇は仏教の受け入れを問題視しましたが、894年の遣唐使の廃止までは中国思想が輸入されていました。

つまり日本人は中国思想を一つの「権威」として見ていた一面もあり、三教合一を分けることなく受け取っていたので、日本では「神・儒・仏」の三教合一論になったと考えられます。

そして梅岩も思想で宗教や思想はあくまで「薬」であると表現し、病気にかかっている状態の自身を修めるための方法論(処方箋)にすぎないと考えています。

石田梅岩の心学

他の心学では本性を、主に孟子の説く「性善説」が基本としますが、梅岩は本性を「赤子之心」とします。

さらに人間の秩序は宇宙の秩序と同じであり、これを「呼吸」に例え、この秩序(呼吸)の継続性を「善」としました。

そしてこの「善」を体現している赤子を「聖(無知の聖人)」とするのです。

このように考えると梅岩も一種の「自然性」に重きを置いていると感じます。

さらにサラリーマン出身の梅岩は市民思想である点を考えると、梅岩の「心学」は「「心」の健康維持のために処方するための「学問」である」と言えます。

都鄙問答

石田梅岩の武士道

「自分の子供を武家の方向に出したのですが、武士としての道をどのように教えれば良いでしょうか」と弟子が問いました。

すると梅岩先生は

「子曰く、心が卑しい者とは一緒に君主に仕えるべきではない。

そういう輩は、地位や棒緑をまだ得ていないと、手に入れようと思い悩む。

すでに手に入れていたら、失うまいと 必死になる。

そしてそれを失いはしまいかと思い悩むときは、どんなことでもする」(子曰く夫は与に君に事うべけんや。其の未だ之を得ざれば、之を得んことを思う。既に之を得るときは、之を失わんことを思う。苟も之を失わんことを思うるときは、至らざる所なし)(論語より)

を述べた上で、臣の道を「手足が口に使われることを手本にせよ」(口(主君)が食事をとらなければ、手足(武士)は無事ではない例え)としました。

さらに土の道について

『孟子』にも「命も義も守りたいが、命と義のどちらかを選ばないといけないなら、私は生を捨てて義を取る。よって、死を憂える思いが避けられないのだ」 とある。

武士たる者は、このことをじっくりと吟味すべきである。

だが、世の中には、「武芸に励むだけが武士の道」と心得違いをしている者も多い。

真の志がない輩は、士の中に入れ るべきではないのだ。

『論語』に、「周公のような才能に恵まれたとしても、人柄が傲慢で吝なら、ほかにどんな取柄があったとしても目を向けるまでもないことだ」(一方、心が正しく愚直な生き方を貫いているなら、ほかに少々不足があっても、士と呼んでかまわない。

『論語』(憲問篇)には、士たる者の「恥」について弟子の原憲から尋ねられた孔子は、「国に正義や礼節といった道徳が行き渡っているときに仕官して緑を受け るのはよいが、道徳が廃れているときに仕官して緑を受けるのは恥だ」

善政が行われている時代に運よく禄を得たとしても、大して役に立たないのは恥ずべきことである。

ましてや君主が正しい政道をわきまえず、国が治まっていないのに君主を諫 めることもできず、ただ禄を食み続けて身を引こうと思いもしないような臣は、これまた大いなる恥である。このあたりのことをよく考えることだ。(都鄙問答より)

として武士の志について説きました。

そして最も注目されているのは商人道を説いたところにあります。

これが、かの松下幸之助が「都鄙問答」を座右の銘とした意味になるでしょう。

石田梅岩の商人道

弟子は「私は品物を売買する事を仕事としているが、商人としての道がわからない」どのような点に注意して世を渡って行けばよいか尋ねた。

梅岩先生は

遠い昔、自分のところで余った物を、不足している物と物々交換することで相互間に流通させたのが、商人の発祥とのことだ。

商人は、銭勘定に精通することで日々の生計を立てているので、一銭たりとも軽視するようなことを口にしてはならない。

そうした日々をこつこつと積み重ねて富を貯えるのが、商人としての正しい道である。

その場合「富の主人」は誰かというと、世の中の人々である。

買う側と売る側という立場の違いはあっても、主人も商人の自分も互いの心に違いはないのだから、一銭を惜しむ自分が気持ちから推し量って、売り物の商品は大切に考え、決して粗末に扱わずに売り渡すことだ。

そうすれば、買った人も、最初のうちは金が惜しいと思うようなことがあっても、商品のよさが次第にわかってくると、金を惜しむ気持ちはいつの間にかなくなるはず。

金を惜しむ気持ちが消え、いい買い物をしたという思いへと自然に変わるのである。

しかも、天下の財を流通させることで、世の中の人々の心や生活を安定させることにもつながるので、天地に季節がめぐって万物が生育するのと相通じるものがあるといってよいのではないか。

そのようにして富が山のように築かれたとしても、その行為を欲得というべきではない。

青砥左衛門尉藤綱 (北条時頼に仕えた鎌倉時代の武士)が、欲得からではなく、世の中のために一銭を惜しんで、川に落とした十銭を探させるために五十銭を費やした有名な故事の意味をよく吟味することだ。

そのようにすれば、国のお達しである倹約令に適い、天の命にも合致して好都合で幸せになれるだろう。

自身の幸福が万民の心を安心させることにつながるなら、それこそ“世の宝”とでも呼ぶべきで、天下泰平を祈願するのと同じ効果がある。

いわずもがなのことではあるが、商人は、国の法をよく守り、わが身をよく慎まなければならない。

商人といえども、人としての道を知らずに金儲けをし、しかも不義の金を儲けるようなことがあっては、やがては子孫が絶える結果を招きかねない。

心底から子々 孫々を愛する気持ちがあるなら、まず人としての正しい道を学んで家業が栄えるようにすべきであろう。(都鄙問答より)

現代の商人は「いかにして儲けるか」「いかにして買わせるか」が志であるかのように感じます。

しかし本来の商売は「より人々の生活を豊かにすること」が目的であって、松下幸之助が生きた時代の経営者には、本来の目的を見失わず商売に専念したからこそ日本自体も成長していくことができたのでしょうか。

世の為、人の為に考えた商売・商品は誇大広告などなくても世の中に認められます。

一人ひとりが「自分が豊かになるため」の商売をし続けるかぎり、日本はこのまま衰退していきます。

まとめ

いつの時代も文明が進歩しても、その時代を生きる人々の心が追い付かない現象が起きます。

私たちのように学校教育を受けた人間は、自らの意志で人としての成長を目指さなければならないと考えます。

近年、自己啓発本のようなものが世の中に溢れかえっていますが、そのような本を読む価値があるのでしょうか?

その本を開いても、富は得たが人間として未熟な醜態をさらしているだけです。

今の時代にこそ必要な「自分のための学問」を探していきましょう。

参考文献

「都鄙問答」石田梅岩

「勤勉の哲学」山本七平

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