岡倉天心についてはあまり多くの人に知られていないかと思います。
しかし岡倉天心は美術の指導者にして思想家であり、日本人がどう生きていくべきか、西洋文化とどう向き合っていくべきかと問い続けた人物でした。
そんな岡倉天心に日本人の思想から東洋の思想まで幅広く描かれているのが、かの有名な「茶の本」です。
「茶の本」は茶道の内容だけでなく、思想面についても多く書かれています。
今回は茶の本から岡倉天心が目指した日本人の精神を見ていきたいと思います。
日本人が無くした茶道
私たちの時代では茶道はすでに人気のある伝統文化とは言えなくなりました。
時代の流れで禅などの思想は時折流行を見せますが、茶道はあまり表舞台には出てきません。
それには日本人が西洋文化に傾いている、傾いてしまったことも大きな原因として挙げられるかと思います。
実際茶道について知っているという人は若い人間にはほとんど見受けられません。
本来の茶道
茶道とは至上の美を追求する宗教という一面を持っています。
茶の哲学は「清潔さを促す」という面では衛生学であり、「豪華絢爛なものより、質素なものにこの慰めを求める」という点では経済学であり、「宇宙の均衡に対する私たちの感覚を定める」という点では精神的な幾何学とさえ呼べる。(「茶の本」より)
このように日本人の物事への考え方に大きく影響している、下支えをしてくれているのが茶の心です。
この茶の心をもっている為、茶道は東洋的民主主義の精神を実に具体的に表している伝統文化と呼ばれ、服装や住居、あらゆる文化に影響を及ぼしています。
他にも「あの人は茶気がある」とか「茶気がない」とよく言いますがこれも茶道から影響を受けた言葉です。
西洋文化と戦う
茶の本が書かれた時代には多くの西洋文化が輸入され始めた時代でした。
岡倉天心は日本人が、簡単に西洋文化を取り入れようとし、その西洋文化の真の価値も知らずに真似事をするような態度を蔑んでいました。
時には「古式住居の良さがわからない西洋人達に、お茶室の微妙な美しさを理解してもらえることを期待するのはほとんど不可能なことだ」言っています。
さらに西洋社会に対しては心の安らぎを失う対価として領土を拡大してきたのに対して、東洋社会はひとつの調和を作り出してきたと主張し、西洋と東洋がお互いに慰めあって世の中の不完全さに対して真摯に向き合えるのは禅の僧侶のように瞑想をする瞬間だけではないかと訴えています。
岡倉天心の道徳論
岡倉天心は「道徳の基準は社会の過去の要請によって生まれましたが、共同体の伝統を守るためには国家に対する個人の犠牲が伴う」と考えました。
これは「茶の本」が刊行されたのが1906年であるため、現代の日本の場合は伝統を壊された立場になっています。
さらに岡倉天心は教育について「幻想を続かせるために無知の奨励、人間はどのように生きるべきかどのような人になるべきかといったことを教えらず、高潔な人とはどういう人か教えられず、その場に応じて適切に振る舞うような人間に教育される」ことに警鐘を鳴らしています。
このようになってしまった世界、全ての人々が疑心暗鬼になってしまう世界が現実としてあるのに、どうして私たちが世界に対して真面目でいることができるのかと岡倉天心は嘆きました。
また詐欺まがいの商売や、形でばかりの宗教、商売を独占するモノたちなどの価値基準が狂っているとも言い、そんな世界では私たちに宿る才能が、公共の競売人たちによっていいように使われてしまわないように注意すべきと教えてくれています。
現代は「金持ちが偉い」=「成功者が偉い」の社会は共通認識であると思います。
たまに社会起業家が名乗り出てくれば、行政との癒着、SNSの普及に伴い金儲けのために自分自身をやたらと宣伝するインフルエンサー。
岡倉天心は、現代の多くの人に当てはまる現状を「奴隷の時代に由来する本能に過ぎない」と言い、100年以上前の偉人に、頭をはたかれた気分になります。
「知識はやましい心によってもたらされ、徳業は利益を求める人の手によってなされる」 このような富と権力を求める怪物たちの闘争により、かき回された世界を岡倉天心は嘆きます。
道教と禅と茶道
岡倉天心は茶道を道教の思想が形を変えた姿だと例え、「道教が茶道の美の理想の根底を作り、禅はそれに実践を与えた」しています。
禅の思想が生み出したものである茶道の理想は小さな出来事にも大きな概念を見出そうとする精神と考えることができます。
岡倉天心は、この「茶の本」をもって世界の在り方・日本の在り方を示そうとしたのではないかと思えてなりません。
この不安定な世界情勢で道徳的な中立を保つために、宇宙の偉大なリズムと調和すること(自分を律する秘訣)自然の流れに身を任せることで真の平和を目指す。
これこそが「茶の哲学」であると言えます。
まとめ
この本は岡倉天心からの覚悟と、未来の私たちに贈られたとも言える「利休の最後の茶」で締めくくられます。
「よくぞ我が前に現れた。永遠なるこの宝剣よ。仏陀を貫き、達磨までを貫いてきた剣よ。今度は同じように私を貫き、お前の道を貫くがいい」
ここには「禅」や道教の「道」の精神が全て現れているように感じます。
この本に込められてた思い、日本人としての誇りを今一度、現代の私たちは思い出す必要があるのかもしれません。