私たちは学校教育、社会に出てからの常識によって、自分の中で常識というルールを作り生活しています。
そして常識の多くは、正しい事という空気、誤っている事という空気によって判断されており、そこに自身の直感から感じる「不快感」「不満」などを口にしないことは「美徳」であるとされています。
この社会への違和感を、大衆に向けて警告として書かれている本が、E・フロムの「反抗と自由」です。
この腐敗した社会のルールを知り、本来の人間性を取り戻しましょう。
この世界は反抗から始まった
「服従は美徳であり 犯行は悪徳である。」
この社会一般的に「普遍の原理」であるかのようにされる言葉は、私たちの常識として無意識に組み込まれています。
そして、この常識を設定することによって私たちは「自らを臆病者として嫌悪することなく、服従を善であるがゆえに受け入れ、犯行を悪であるがゆえに嫌悪することができる 」管理しやすい人間となるのです。
この恐ろしい世界から、人間の本質を取り戻す力が「反抗」なのです。
反抗という行為は、現代では許されない行為とされています。
日本では、親の教育から始まり、義務教育によって教え込まれてきました。
しかし、私達が生活するこの世界は、全ての始まりである反抗する事によって進化してきたのです。
私たちを所有物であるかのように扱う権力者に、反抗した人々があったからこそ、人間の精神的発達は成し遂げられました。
また精神的発達のみでなく、知的発達も新しい思想を抑圧しようとする人間や、昔ながらの考え方に縛られている老人たち、変わる事を拒む権威者たちへの反抗によって進化してきました。
逆に言えば、服従こそが人間の歴史を終わらせる唯一の方法かも知れません 。
エーリッヒ・フロムから言わせてみれば「数学、 天文学のような自然科学は20世紀のものだが、 政治・国家・社会に関する私たちの考え方は、科学の時代よりはるかに遅れている」そうです。
奴隷から解放されるための勇気
服従することができて反抗することのできない人物を奴隷と呼びます。
逆に反抗だけで来て服従ができない人間を反逆者と呼び、反逆者は怒り、妬みから行動し信念、原理の名においては行動していないこと。
学生時代に反抗していた人たちは、「目立ちたい」「かっこいい」といった典型的なタイプは、反逆者にあたりそうです。
反逆者と反抗することへの違いを認識する必要があります。
そして人物、 制度、 あるいは権力に対する服従(他律的服従)は屈服であり、自身の理性あるいは信念に対する服従(自立的服従)は屈服の行為ではなく、確認の行為であるとフロムは考えています。
そして反抗という行動を起こすには勇気が必要となります。
この世界は、現在でも変わりなく、少数者が多数者(大衆)を支配してきました。
彼らは非合理的権威を用いて権力者は奴隷からできるだけ搾取しようとしています。
そして時代と共に変化した点を挙げるなら、そのシステムは、より巧妙に、より真実が見えづらくなったところでしょうか。
このシステムの変化しない点は、権力者であるその少数の人々は、多数者が権力者を倒す手段を得ることを恐れているのです。
しかしシステムの中にいる人間たちは、反抗する能力を失い、日々の生活に忙しいあまり、服従しているという事実に気づかず、権力者に飼いならされているのです。
だからこそフロムは「疑い・批判し・反抗する能力が人類の未来と文明の終焉との間にある唯一の防壁となる。」という言葉を残しています。
【経済的基盤は社会的性格に影響を及ぼし、社会的性格は、思想や理想に影響を及ぼす。】
【抑圧は人間を歪め、断片化し全人的な人間性を奪い、意識は与えられた社会によって決定される】
奴隷を縛る為の意識制限
消費社会に順応させた人間を「奴隷から解放されたい」という欲望を持たせない、 反抗する意識を持たせないために、 少数の権力者は奴隷の意識制限を行います。
人間は権力者にとって不都合な思想や言語を使用させない、 感じさせないようにして、 奴隷に奴隷という意識を持たせないようにするのです。
つまり言論統制を行います。
奴隷からの反逆を恐れた権力者たちが、今日で言うメディアに規制をかけることによってこの世界は成り立っています。
このように「狂った世界である」という思想を、意識に登らせないようにすることで、奴隷を完全に支配することができるのです。
人間哲学としてのヒューマニズム
このような世界に必要な思想として、フロムは「ヒューマニズム」の「ルネサンス(再生)」を挙げています。
ヒューマニズムの原理
- 人間は一つであるという信念
- 人間の尊厳の協調
- 産業社会がもたらす精神的な死から人間を救済すること
- 自らを伸ばし、完成させる、人間の能力の強調
- 理性・客観性・平和の強調
ポーランドの哲学者であるアダム・ シャフはヒューマニズムについて、
「 人間を最高の善と認識し、人間の幸福のための最高の条件を現実に生み出すことを願う思索体系」と呼んでいます。
ヒューマニズムは人間への脅威に対する反作用として起こったものであり、それは人間の肉体的精神的存在そのものへの脅威の事を指しています。
つまり、ヒューマニズムとは2500年の伝統を持つ、「西洋の預言書」と「東洋の仏教」に始まる世界的人間哲学の事を指しています。
「人間は自らの中に自分自身の個人的特性ばかりでなく、 あらゆる可能性を持つ人間性の全てを持っている。」 ゲーテ
思想の体系化
これは近代社会にも言えることですが大量消費社会では、人間という存在は阻害され、ますます構造化されたシステムの中で踊らされ続ける事となり、「生きていること」という自らの人間性の本質そのものを喪失する。
フロムはこのような状況を避けるためには「思考を定式化」する必要があるとしてます。
例えば、最近メディアで見られるようなくだらない討論番組では、よく思想的な論争が見られます。
しかしフロムから言わしてみれば、そのような討論は、それを語る人物の現実の経験と、その概念とを照合することによる結果を討論するわけではないため、その人物が語る思想的概念は取るに足らないものとなります。
「思想を語ることは誰にでもできるが、人間的実質に根ざしていなければその言葉は概念にすぎない」
E・フロム
思想は肉体か、 体系化されることによって人間に影響を与えることができるようになる。
つまり、思想をいかに定式化するかが重要であって、定式化されていなければ思考を統制することによって民衆を統制することなどできない。
そしてフロムは、「彼こそがこの人間の反抗の権利と義務への思想を体系化した人物である。」とし、思想の定式化を体現した人物としてパートランド・ラッセルを挙げています。
彼の反抗は、「肯定しうるが故に批判できる人物のことであり、良心と自ら選んだ原理に従うことができるからこそ反抗しうる人物のこと」を指しています。
つまり自身の意思と理性を肯定する行為を、反抗としたのです。
「「人はこの世の何者よりも思想を恐れる」思想は全てを覆し革命を行う。
思想は特権や確立した制度や快適な習慣を容赦しない。
無秩序であり無法であり、権威をも意に介さず、幾時代も経て試練に耐えた知恵にも無関心である。
思想は偉大であり 迅速であり 自由である。
恐れを捨てなければならない人間の邪魔をするのは恐れである。 」パートランド ラッセル
まとめ
権力者は言いました。
「 人間に自由な思想を出せるよりは、愚かで怠惰で他人をいじめさせておくがいい、 自由な思想を持てば 我々と同じ考えを持たなくなるかもしれない。
どのような犠牲を払ってもこの争いだけは避けなければならない。」
確かに権力者は、明らかな力を持っています。
しかし私たちは人間です。
人間である私たちはこの慣習的な状態から抜け出すことができる。
この状態から抜け出す事、つまり革命です。
そして革命は、人生の事実(真実)を反映した人間哲学的な伝統を受け止め、現在とは違った社会慣習と組織、 そして違った社会的雰囲気が整う事で発生し、以下の2つの条件が揃う事で成功します。
- 新しい生産力の表現
- 人間性の抑圧された部分の表現
つまり現状のシステムを変えることは、国民一人ひとりの意識が変わらない限りは、非常に困難であるという事です。
「世の中の法律や制度を如何に変えて見ても、イデオロギーを如何に振り回してみても駄目である。人間そのものをなんとかしなければ、絶対に人間は救われない。」安岡正篤
参考文献
「反抗と自由」 著 E・フロム 訳 佐野哲郎