そもそも倫理って何だろう?と思う人も多いと思います。
それを解消するためにも、倫理学の基本的な考え方を学んで行きたいと思います。
倫理学に限ったことではありませんが、あらゆる分野を学ぶ際に哲学を避けて通ることはできません。
まずは倫理学を理解するために哲学とは何かについて解説していきます。
倫理学と哲学
倫理学は形式上は道徳哲学の括りに入ります。
道徳哲学の中には、メタ倫理学、規範倫理学、応用倫理学なども含まれています。
メタ倫理学では、道徳思想の原理や根拠を探求し、規範倫理学では道徳的な行いの基準やルールに関して、応用倫理学では日常生活における道徳的ジレンマについて考えます。
哲学というのは、言葉(概念)を使って世界を記述していく行為のこと、真理を探究し物事を理論的に把握する事とも言えます。
これに相応する他の方法には、関数を用いて世界を記述する方法=科学などが挙げられます。
科学には、物理学などの専門分野があり、それと同様に哲学も同じで、存在論や論理学などがあり、倫理学があります。
道徳哲学の中に倫理学が入ると言いますが、全ての学問において哲学がもとになっている(関連し合っている)事を忘れないでください。
道徳哲学は、哲学の善悪に関することを探求する学問ですが、善悪に関する議論にもいろいろな分野があります。
例えば存在論や経験論などがありますが、分類する事=学ぶ事ではないので、広い意味で捉えておけば大丈夫です。
哲学はなんと言っても言語を理解する事が重要で、おもしろい主張があったので紹介しておきます。
19世紀頃までは認識論が中心でしたが、20世紀になると哲学の中心的な主題が言語へと変わっていきました。
理由としては「哲学は言語を通して語られる他にない」という主張です。
この20世紀に活躍したのが、現代のPC誕生にも大きく影響したとされるウィトゲンシュタインです。
ウィトゲンシュタインの論理哲学論考
- 世界は成立している事柄の総体である
- 成立している事柄、 すなわち事実とは、諸事態の 成立である
- 事実の論理像が思考である
- 施工とは有意味な命題である
- 命題は要素命題の真理関数である
- 真理関数一般はこうである。「p、 ?、p、(?)」
- 語りえぬものについては、沈黙しなくてはならない
この7つの命題を詳しく展開した書が論考で、論考の課題は思考の明晰化であり、言語の限界を確定することです。
この頃のウィトゲンシュタインは、世界を写し取るものとして言葉を捉えてきましたが、これを写像理論と言います。
これを論考したウィトゲンシュタインは、哲学一般、さらには論考すら無意味だと宣言し、哲学の舞台から身を引きました。
ヴィトゲンシュタインの哲学探究
哲学を拒絶したヴィトゲンシュタインは言語ゲーム論で復活することになります。
言語ゲーム論とは一定の規則(ルール)の下で行われる人々の相互行為のことを言います。
ゲームと呼ばれる所以は人々のコミュニケーションの中で行われる会話には、その言葉自体に意味がなくともその場面場面でのストーリーによって文脈が生成されることがある、 つまりその相互行為の規則が絶対的なものではないからです。
写像理論の違いとしてゲーム理論は「客観的手術が必要ないためこの世は無常です」のような言葉も科学的命題ではなく、宗教的文脈における言語ゲームであるということをわきまえれば、それぞれの集団の内部では真実の教えであるということを認めることができるようになるのです。
つまり科学的におかしな命題も十分に有意味なものであることを理解できるようになります。
ここで注意してほしいのが、ウィトゲンシュタインは倫理についても「語りえぬものについては、沈黙しなくてはならない」の原則にもとづいて、「世界の意味は、世界の外側に存在していなければならない。世界のうちでは、一切はあるがままにあり、起こるがままに起こる。世界のうちには、いかなる価値も存在しない。それゆえ、いかなる倫理学の命題もまた存在しえない。」という立場をとっています。
このような言葉(概念)や自国の言語を使って、真理を探究し物事を理論的に把握する事を哲学と言います。
倫理学
倫理学を学ぶ前におすすめの本として「倫理学を学ぶ人のために」があります。
この本は「倫理学とは何か」という問いに対して、明確な道筋を示してくれます。
共著者である宇都宮芳明は「倫理」について、「慣習倫理」と「反省倫理」に分けて考えることから始め、わかりやすく説いています。
慣習倫理
倫理について、世間では企業倫理・政治倫理・環境倫理について語られますが、特定の事柄ではなく、1人ひとりが生活に密着した倫理に注目し、価値判断を行うことを前提とします。
子供は、そうした日常生活を過ごす中で、世間の人々が「倫理的によいと認めて称賛する事柄」を真似て倫理的善悪の知識を身に着けていきます。
これを慣習倫理と呼ぶことにしました。
これは、イギリスの哲学者ロックの「世論の法」(法的な処罰はないが、世間の人々から非難される)に通ずる考え方です。
また、どの時代にも通用するような倫理がない為に、倫理を社会形成物として考察する学問として見ることが成立します。
このように学問として見ることで、私たちが生きている現在で「倫理」を一つの事象として扱えるようになりました。
反省倫理
慣習倫理が世間的で言う所の「倫理的によい」とされている事に対し、反省倫理は「倫理的なよさ」について、自分で納得のいく答えに従って生きて行こうとする考えを反省倫理としました。
つまり反省倫理の立場の人は、世間の人々の意見に対し、批判的思考をもって対処し「倫理的よさ」を自分の頭で考えて判断します。
この反省倫理側の人は自律した生き方をすることになります。
自律した生き方をする人に起こる変化
- 回りの意見に振り回されない自己の一貫性
- 判断に責任が生じるため、倫理的善悪を冷静に考慮して行動する
- 相手の立場に立って、物事を考える事ができる
このように自律した生き方をすると自分の成長に大きく役立つように感じます。
しかし私たちが、このような生き方を目指す場合には倫理的に正しい判断を行うための基準が必要になります。
この「基準自体に向けて反省すること」を主題として扱う学問を倫理学と言います。
まとめ
哲学と倫理学を学ぶ事の意義を感じてもらえましたか?
世の中には、哲学や倫理学を役に立たない学問だと、考える人間が少なからず存在しています。
しかし、この二つの学問がない世界になると、それは人間の生きる世界ではなくなっているのではないでしょうか。
仮想現実やSNS等、ネット空間で生活を送る時間が長くなっている現代にこそ、哲学と倫理学は必要だと思います。
参考文献:「倫理学を学ぶ人のために」著 宇都宮芳明 熊野純彦