心を鍛えることは、そのまま自身の倫理を正していることになります。
辛い思いをしている人に寄り添う立場の調査員には、利己的な考えを持ち出さないためにも、倫理観を鍛える必要があります。
今回は心学についての理解を深めていきたいと思います。
中江藤樹は「近江聖人」と呼ばれるほどの人物です。
当時の親は、子供を叱る時に「先生(中江藤樹)が見ておられる」と言うほどに、周囲からの尊敬されていました。
また中江藤樹は「日本陽明学の祖」と呼ばれ、熊沢蕃山をはじめ多くの弟子を指南し、陽明学を日本へ広めていきます。
弟子の中でも中江藤樹は熊沢蕃山を「我が門下のトップにして、私の心の友である」としています。
現代の日本を形作った「日本陽明学の祖」中江藤樹と熊沢蕃山の心学について見ていきましょう。
中江藤樹の生い立ち
中江藤樹は1608年、近江高島の小川村に生まれました。
彼は若いころから儒教を学び始め、「聖人」を志すようになりますが、武士の家柄であったために、武芸にも励んでおりました。
15歳で武士になりますが、27歳で故郷の母の面倒を見る為に脱藩し、商人となります。
この頃から近隣の人たちに学問を教えるようになります。
陽明学を知ったのは37歳の時で1649年41歳の若さで亡くなりました。
熊沢蕃山の生い立ち
熊沢蕃山は1619年に京都にて生まれました。
15歳で備前岡山藩の武士になりますが、島原の乱への従軍を願い出ましたが断られ、それを機に祖父の家の近江八幡へ戻る事になります。
23歳で中江藤樹と出会い、教えに感銘し入門することになりました。
26歳で再び岡山藩へ戻り学問に励むものの、幕府が朱子学を「官学」としているのに対し、岡山藩は陽明学に傾倒していたために、林羅山らに批判されることになります。※林羅山は幕府の朱子学者
この反対勢力に耐えられず38歳で脱藩します。
その後は私塾を開くなど活躍し、73歳で亡くなりました。
心学とは
熊沢蕃山の主著「集義和書」には以下の文言があります。
「惑を解ことの多きを理学といひ、心をおさむることの多きを心術といふ」
「心学」とは「心の学問」です。
自分の心と向き合い、人間性を磨く修養学であり、倫理学の反省倫理学、すなわち実践倫理学であると言えます。
中江藤樹の心学は、「性善説」を主とした儒教心学に倣っています。
性善説とは、人は誰もが「四端」を持っている、だから「この四つの徳を心に宿すことで、元もと素晴らしい人間は人間として生きていける」と説きます。
つまり「人間は善なる本性を生まれながらに持ち合わせており、たとえ悪事を働こうとも、その善なる本性で反省すれば、欲物の世界から解放される」という考え方が、儒教徒の心学理論の心髄です。
この心学は、神や仏に祈るのではなく、自力による自己救済であり、自分の本来持ち合わせている善なる心に従って「修己治人」を実践し「悟り」を目的とします。
また儒教心学は悟りの宗教ですが、儒教心学を学ぶ人が他の宗教を信仰する事もあります。
中江藤樹も太乙神信仰を持ち合わせた一人でした。
中江藤樹の心学・朱子学と陽明学
中江藤樹は朱子学(主に「四書大全」)を学んだ後、晩年に「陽明大全」に出会い、王陽明の良知心学を学んで行きましたが、朱子学・陽明学に対する疑問を払拭できませんでした。
※「四書大全」「五経大全」「性理大全」を合わせて「三大全」と言う←文官試験の教科書
そこで彼は性善説を人間の本性論(本質論)としては承認する事とし、朱子学や陽明学では、人間の弱さが露呈する事を、身体的・外部的要因であるとしているが、中江藤樹はそもそも人間は本質的に悪をしでかしてしまう要素があるとし、さらには悪を単に後天的なものに過ぎないとしています。
中江藤樹は朱子学のように悪事を働いた後、その善なる本性で反省すれば良いとの考えを否定し、それでは取り返しがつかないと考え「意を伏蔵するままに心の底に鎮め置くこと。そうすれば百悪は露呈しない」これが中江藤樹の誠意説を主張しました。
中江藤樹は陽明学を高く評価しましたが、陽明学を単に受け売りしたのではなく、陽明学の心性論が人間の実態にそぐわないことを痛感して独自の誠意説に象徴される心性論を打ち立てる事になったのです。
熊沢蕃山の心学
熊沢蕃山は中江藤樹を尊敬するだけでなく、しっかりと独自の考えを持っていました。
中江藤樹は学問をもって聖人になる事を目的としていましたが、熊沢蕃山は聖人になり何をなすのか大事であると考え、より実践する事に重きを置いていました。
この考え方は熊沢蕃山が書いた「集義和書」の「時処位」に表現されています。
「時処位」とは時代・場所・地位を指し、基本となる考え方(孔孟の教えなど)は大切ですが、それを実践するには、その時代・場所・地位(立場)を考慮し、その時々の状況に合わせて工夫する必要があるという主張です。
また熊沢蕃山は中江藤樹が内省的な理論家だったのに対して、実践に重きを置く行動的な人物であり、自分の頭で考え、自分の心に従うことを重視していました。
そんな熊沢蕃山は中江藤樹の死後、朱王折衷の理論を補助とし、堯舜の道こそが学問の基本であるとしたり、その「時処位」ごとに自身の頭で考え、答えを出していきます。
このような思想だった為に学問として熊沢蕃山は一貫しているとは言えません。
師である中藤樹が儒学だけを心学としなかったように、熊沢蕃山も道教・仏教・神道と幅広く、優れている点は取り入れていく学問スタイルを貫きましたが、キリスト教に対しては「仏者よりは上手也。理を云事も、仏道よりまされり」と認めるものの、その影響力に危機感を覚えていました。
蕃山は政治よりの人物であった為、日本の在り方について深く考えていたことでしょう。
「今の人、情欲厚く利害深きこと、其習十百年にあらず。 根固く染深し。 俄に世俗の人情を抑へ急に利害を妨げば、道行るべからず」集義和書
まとめ
熊沢蕃山に続いて、佐藤一斎、吉田松陰など、陽明学・心学の教えは時代の裏側で受け継がれてきました。
陽明学・心学が日本人の思想に大きな影響を与えているのは事実です。
またこの陽明学・心学が基礎にある武士道は、日本人の心に確実に根付いていると信じています。
最近では武士道を語る資格のない人間が、公の場で騒いでいるのを見受けますが、残念です。
学問を通じて「自分の考え」をしっかりと作り、真実を見極められる人間になりましょう。
「世俗の人は物欲の塵で心をふさぎ、学者は自分の見識で心をふさぐものである」
参照「中江藤樹の心学と会津・喜多方」吉田公平、小山國三(著)