老子と荘子から学ぶ人生の智恵

今回は老荘思想について学んでいきたいと思います。

日本人の多くは論語については知っているけど、老子・荘子についてはそれほど知らないのではないでしょうか。

「老子」「荘子」を合わせた老荘思想は儒教と並び、中国三大宗教の一つである道教の最上の教えとなっており、これに「周易(易経)」を加えて「三玄」と呼ばれ、この教えの学問を「玄学」と呼びます。

目次

儒教と道教

二つの思想はおよそ長江と横河によって南北に分かれ、中国本土の北側を儒教、南側が道教となります。

思想として周王朝の誕生によって共同主義、法による支配が幅を利かせるようになり、周王朝が滅ぶと分裂した国家が自由主義のもとに乱立しました。

この状況を修めるために出てきたのが、儒教と考えられます。

一方道教は個人主義的な面を持ち合わせており、儒教とは対立する関係にあるのです。

日本では武士道の根幹に儒教があり、厳格な規律としての儒教の教えを取り入れました。

それに代わって老荘思想は「道に従って自我を捨てる」日本の禅(臨済禅、鈴木大拙の禅)の考えに近い位置づけになります。

これには「禅」が道教の教えを強く受け継いでいることに起因します。

今回は日本人の思想に大きく影響している老荘思想について見ていきたいと思います。

老子とは

老子とは中国の古典として有名ですが、老子の生い立ち、出典に関しては多くの説があるためここでは割愛させて頂きます。

名は知れ渡っていますが、老子はこのような表舞台に出る事を好みません。

彼は道徳の道を修めましたが驕ることもなく、むしろ無名であることをよしとしました。

老子の作成にしても、函谷関の役人である伊喜に頼まれた為、五千程の文字を書き残したにすぎないのです。

さらに隠者のような生活を好み、富や名声を得たとしてもすぐに退くことを推奨しています。

このような老子の事を論語、つまり儒教の始まりである孔子は「龍のような人」と表現するほどに奥深い人物でした。

老子は日本の伝統文化である「茶道」とも関係が深く、お茶を出す習慣は老子の弟子である関伊によって始まったとされています。

老子の思想

道の道とすべきは恒の道に非ざるなり。名の命づくべきは恒の名に非ざるなり。無名は万物の始めなり。有名は万物の母なり。以下略(體道第一)

多くの中国古典は冒頭に重要な記述を残しています。

老子も例にもれず、「道」とは何ぞやを説いています。

この「恒の道」は儒家の思想を指し、しっかりと批判したうえで、「本当の道とは名前を付けることのできない宇宙根源の道である」と言い、「名前を付ける」ように物事を定義することを拒びます。

道教の「道」は移り行くものであり、「宇宙の根源」における絶対は「相対的」と考えるのが道教の道です。

道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負いて陽を抱き、沖気以て和を為す。(道化第四十二)

「沖気」は「中気」と言い、易経で最も大事な教えの一つである「中する」事、陰陽の調和を説いています。

上善は水の若し。水は善く万物を利して而も争わず。衆人の悪む所に処る。故に道に幾し。(易性第八) 

老子の教えの中でも「水」の考えは重要です。

水は様々な利益をもたらすが、それでいて人の嫌がる所に居ても何も言わない。

この「水」の在り様が「道」の考えに近いと説いています。

学を為せば日に益し、道を為せば日に損す。之を損して又損し、以て無為に至る。無為にして而も為さざる無し。(異俗第二十) 

「無」の思想は仏教において多くの教えになっていますが、老子の教えにも通ずる点があり、それが「道」です。

学ぶと多くの知識が手に入る。この知識を道を実践していくことによって極限まで減らしたところに無為がある。この無為の境地に達することは全てを為しているようなものだという意です。

他にも「聖人は恒に心無く、百姓の心を以て心と為す。(任徳第四十九)」とあり、これは仏教の「空」なる思想と近いものがあります。

道は之を生じ、徳は之を畜い、物として之を形し、勢之に成る。是を以て万物は道を尊びて徳を貴ばざるは莫し。道の尊きと徳の貴きは、夫れ之に爵あらしむる莫くして恒に自ら然り。(養徳第五十一)

道と徳の関係を説いています。

この点を見ると儒家批判をするものの、「徳」に対しての批判ではないようです。

推察の域で話すと、「徳」に対して「仁」などの名称を付けたことが「道」の考えにおいて適切でないと考えたのかもしれません。

名前を付けることが一つの「執着」であることも一因しているのでしょう。

大道廃れて、仁義有り 以下略 (俗薄第十八)

大いなる「道」が廃れた為に仁義、孝行などの徳が必要になった」

これは逆に言うと「道」をしっかりと行けば徳はいらないとなります。

荘子とは

人物としての荘子を「そうし」と呼び、書物としての荘子を「そうじ」と呼ぶことから始めましょう。

荘子は老子の没後、二百年ほど経ったころに誕生したとされており、彼の特徴的思想は「万物斉同」、あらゆる事物の価値は同じであると考えています。

荘子の教えは人間を超越した壮大なストーリーとして書かれていることもあり、老子よりも分かりにくい印象を受ける人も多いと思いますが、老子の教えを把握出来たら荘子は一読する事をお勧めします。

荘子を読むことによって言語の表現を超えた世界を観ることができます。

神明を労して一を為し而も其の同じきを知らず~略~是を以て聖人は之を和するに是非を以てし天鈞に休う。是を之れ両行と謂う。 (斉物論篇)

「朝に三つ食べようが、昼に四つ食べようが、どれも同じことなのに怒ったり喜んだりする。こうならない為に聖人は是非の価値判断を中和し、天鈞の境地にて休む。これを両行と言う」

些細な事で感情をあらわにしてしまう人間への教えです。

山木は自ら寇するなり、膏火は自ら煎くなり。 桂は食う可し、故に之を伐る。漆は用う可し、故に之を割く。 人皆、有用の用を知るも、無用の用を知るなきなり。(人間世篇)

これは老荘思想で重要な「無用の用」を人は皆知らないと訴えています。

「無用の用」とは「無」があるから「有」がある、老子ではそれを器に例え「器の中に何もない空間があるから器としてはたらきができる」として説明しています。

至人の心を用うること鏡の若し。将らず迎えず、応じて蔵せず。故に能く物に勝えて傷わず。(応帝王篇)

「境地に達した人間の心は、鏡のようだ。送らず迎えず、応じて心に留めることもしない。だからあらゆる事に対応しても傷つくことはない。」

これは荘子に三か所でてくる「明鏡止水」と同じ考え方です。

心の働きを鏡に例えることであらゆる物事に柔軟に対応することができる、至人のなせる技です。

賊は徳に心有りて心に眼有るより大なるは莫し。其の眼有るに及びてや、而ち内に視る。内に視れば而ち敗る。凶徳に五有り、中徳を首と為す。何をか中徳と謂う。中徳なる者は、以て自ら好む有り、而して其の為さざる所の者を叱るなり。(列禦寇篇)

ここでは老子の「徳」に対しての批判ではなく、儒教の「徳」の押し付け、自然に出る徳を無理に出そうとすることに対し苛烈に批判しています。

荘子は「徳」を意識すること自体が悪であり、最も悪いのが心の中の徳で、それは周りの目を気にする自分可愛さから来ており、世間体を気にする卑しい心としている。

そしてその恰好ばかりの、自分の心の中の徳と、人が違った事をしているとその人を罵る。

現代の日本社会を表したような一文で心が痛くなります。

他にも「聖人至るに及び、蹩躠して仁をなし、踶跂して義なし、而して天下始めて疑う。(馬蹄篇)」のように、儒教の聖人のような人物が現れてから、無理に仁やら義を必要に求めるから天下は惑うよういなったと儒教を批判しています。

何をか真人と謂うや。古の真人は、寡に逆らわず、成に雄らず、士を謨らず。(大宗師篇)

これも今を生きる私達には痛い言葉です。

昔の人は運命に逆らわず、あらゆる物事を自然のままに受け入れてきたのに、成功だの失敗だのでしか物事の価値を決めれず、人から奪うことしか考えない。

本当の価値とは何ぞやと考えさせられます。

まとめ

今回は重要な点を抜粋して解説しましたが、老荘思想の中には「自然と為る」「無為自然」に関する記述や、「足るを知る」「慎む」ように、日本人の思想に多くの影響を与えているように感じます。

さらに、「徒然草」で有名な兼好法師なども道教に親しんでいたようです。

道教の説く「真の人間」は「倹約」「慈悲」「謙譲」の三つの宝石があります。

これらは全て日本人の感覚として「美しい」とされてきました。

老子が好んだ「虚」しかり、荘子の「想像力」あらゆる思想の良い所を柔軟に、水のように受け入れることができる日本人ならではの特性を活かし、心の成長を願って終わりとします。

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