「道は用に就くも是ならず」
横井小楠は、坂本竜馬や西郷隆盛、吉田松陰らと同じ時代を生きた儒学者です。
小楠は儒学者であると共に「富国論」や「国是三論」などの書を残し、思想を現実世界に落とし込む指導者でもありました。
小楠は今の歴史教科書では取り上げられませんが、勝海舟が「俺はいままでに天下で恐ろしい人物を二人見た。それは横井小楠と西郷南州だ」と言うほどの人物でした。
今回は小楠の思想に触れていきたいと思います。
横井小楠の生い立ち
横井小楠は1809年に肥後国(熊本県)に生まれました。
8歳になると時習館と呼ばれる藩校に入り、中国古典や武術を学びました。
時習館では居寮生なる制度(特待生のようなもの)があり、その中でも小楠は居寮長(藩から年に米10俵支給される)に抜擢されました。
居寮長時代の随筆に「学は志を立てるより貴きはなし」とあり、この年齢で単に学ぶ事に意味がない事を悟っていたようです。
1839年に江戸への留学を命じられますが、1840年には酒の失敗ですぐに帰郷します。
帰国後は謹慎処分もありましたが、猛烈に反省し、さらに学問に打ち込むようになります。
そうして1843年、後に「小楠堂」と呼ばれる私塾を始めます。
その後もペリー来航や福井藩の藩政改革、江戸城の無血開城など激動の時代を生き、1869年に刺客に襲われ亡くなります。※福井藩の橋本佐内とも交流がありました。
横井小楠の思想
「天地の為に志を立て、生民の為に命を立つ。往聖の為に絶学を継ぎ、 万世の為に太平を開く。」「遺稿篇』
小楠は儒学者ですが、その時々で柔軟な考え方ができる人物でした。
さらに「意見や議論は西郷より上である」と自負しており、勝海舟を恐れさせるほどの気迫と頭脳を持ち合わせていたことが伺えます。※勝海舟に「横井の舌剣」と呼ばれた。
そんな小楠の思想は朱子学から始まり、この朱子学において真理を追究し、真理を実践に落とし込むことこそが重要だと考えました。
儒学において「理」の解釈は重要で、朱子学では「性即理」、陽明学では「心即理」と少し違いがあります。
小楠は「理」の考え方においては陽明学の「心即理」に近く、人間の良心に従って行動する事が重要であると考えました。
小楠は特に「心」で根本を理解することが、学問をする上で重要としています。
儒教では学問を「自己を修める修業」と捉えます。
この「修業の心」があれば、この学問の修業を通し、身分や国柄を超えて「朋」となる事ができると言います。
現代は「自由」であることが重視され、自分を修める事は否定されます。
その自由を追い求めた結果が、現代のような歪んだ世界を作り出していることに気付くべきではないでしょうか。
儒教をもとにした小楠の思想は、日本の武士道精神にも通ずるところがあります。
例えば「義」は「心の制」であり、それは「事の宜しき」を実行するものと考えます。
さらに日本が君子の国と呼ばれる所以を「天地の心」を体現し、「仁義」を重んじているからだとしています。
そして「士道」について
元来武士道の本体なれば、己に克く其武士たるを知れば武士道をしらずしてはあるまじきを知り、其武士道を知らんと欲すれば綱常に本付き上は君父に事ふるより下は朋友に交るに至り家を齊へ国を治るの道を講究せざる事を得ず、巳に其意をしれども是を事業に徹し其至当を得ざれば治教に補ひなきを以て自反・力行・精励・刻苦心法を練って是を一撃死生を決するの技術に験し、 百折千磨且練り且試み、他とひ天地反復の変乱に処しても一心静定士道を執て差錯ならん事を欲す。「国是三論」「遺稿篇」
とし、武士道の根幹なる部分を説いています。
小楠とキリスト教
日本には三教合一の考え方がありますが、開国にともなって異国の宗教に溺れてしまうと考えた小楠はそれを批判します。
この西洋の実学であるキリスト教に対抗するには「堯舜三代の道」しかないと考えました。
この思想は小楠の開国論であり、この「堯舜三代の道」を追求し、世界を平和に導く事こそが開国の意義であるとしました。これを「天地公共の道」とも呼びます。
また利益ばかりを追求する実学重視の西洋教育に対して
其心徳の学無き故に人情に亘る事を知らず、交易談判も事実約束を詰るまでにて其詰る処ついに戦争となる。 戦争となりても事実を詰めて又償金和好となる。 人情を知らば戦争も停む可き道あるべし。華盛頓一人は此処に見識ありと見えたり。事業の学にて心徳の学なくしては、西洋列国戦争の止む可き日なし。心徳の学ありて人情を知らば当世に到りては戦争は止む可なり。「沼山閑話」「遺稿篇』
と述べ、未来への不安を予言しています。
どうやら小楠が危惧した未来は実現されたようです。
小楠 思想の変化
孔子は堯舜を祖述文武を建章し天地の時に随び成され候。 孟子も孔子に私淑し孔子の学び玉ふ通りに学ばれ候。程朱も同断。然るに孔孟程朱を学と云へば孔孟程朱の言行の迹をしらべて、 是が道の是が学のと心得たるは孔孟程朱の奴隷と云ものにて唐も日本も同一般の学者の痼疾にて遂に一人の真才され無き所以悲しむべき事ならず哉。「荻角兵衛・元田伝之丞」 文久元年、『遺稿篇』
これは小楠が藩政改革を経て見つけた新しい「堯舜三代の道」を実践したもので、従来の専売制度は廃して、国内の殖産事業などを支援する事で海外から利益を得る「積極貿易論」に倫理を実現指すことに成功したのでした。
まとめ
小楠はキリスト教の布教したとの勘違い、公卿が親兵団を組織しようとした件への批判によって殺害されたとされていますが、実際の事はわかりません。
この移り変わりの激しい時代を生き、日本に貢献し続けてきた人物が横井小楠です。
現代は小楠の先見通り、危惧した未来になってしまいました。
この日本を根本的に、より良い未来にするためには、私達一人ひとりが「自己を修める」事が一番の近道になるのかもしれません。
「上たる人は本領正誠を守り克己勉励いたさねばならぬ」
「有道の国は通信を許し無道の国は拒絶する」
参考文献
「横井小楠」 沖田行司著