初期の仏教を分けて大乗仏教と小乗仏教といいますが、小乗仏教は上座部仏教ともいい、厳しい修行をした人のみが救われるという考えに対し、大乗仏教はより多くの人を助ける大きな乗り物という意味を込めた名称です。
大乗仏教は我執(人間には本質的な実態があると捉えてしまう事)と法執(すべての存在(法)に実体があるかのように捉えてしまう事)の双方を断じて「大涅槃」と「大菩薩」を実現して仏になることを目指し、自利利他円満、自覚覚他円満の自己を実現する道のことをいいます。
仏教は実存主義哲学とも呼ばれ、人間存在の真理状態の分析から始まりました。
唯識学派による心の認識についての分析が優れている点も納得ができます。
そしてこの分析の結果として仏教が最終的に到達する点が「人間は必然的に苦しむ存在」という事実です。
そして人間の苦しみを取り除くことを目的として発展してきたのが仏教であるとも言えます。
その点も踏まえて、「人間哲学」と呼ばれる仏教の基本である大乗仏教の基礎を学んでいきたいと思います。
涅槃とは
涅槃とは煩悩の火が噴き消された状態と考えられています。
涅槃の世界とは灰身滅智する(身智を滅する)事で、また無余依涅槃と言われ業の結果としての身心の依りどころが全く無くなった世界の事を言います。
またお釈迦様が菩提樹の下で悟りを開いた時に得た境地とも言われ、この境地を表したものを「常・楽・我・浄」「常楽我浄」と言い、「四徳」「四波羅蜜」とも呼ばれています。
- 常=常住で永遠に不滅不変である
- 楽=人間の苦を離れたところに真の安楽がある
- 我=人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある
- 浄=煩悩を離れ浄化された清浄な世界である
修業(六波羅蜜)と菩薩
大乗仏教は我執と法執を乗り越え「大涅槃」と「大菩薩」を実現して仏になることを目指すことを目的としていますが、この道を進むものを修業者としています。
そして我執と法執を滅する修業に六波羅蜜があります。
- 布施波羅蜜(親切、周囲の困っている人に手を貸す)
- 持戒波羅蜜(自分のルール、戒律を守る)
- 忍屈波羅蜜(忍耐、逐一人の行動・言動に反応しない)
- 精進波羅蜜(一生懸命、精魂込めて生きて行く)
- 禅定波羅蜜(座禅、心を静める)
- 般若波羅蜜(以上五つを会得することで得られる智慧)
この修業を終え、智慧を得たものを菩薩としています。
仏とは
「大涅槃」と「大菩薩」を実現して成る、仏とは何でしょうか?
大乗仏教は基礎に唯識思想があり、三身論の仏身論があります。
三身には、自性身(法身)・受用身(報身)・変化身(化身)があり、その全体を法身と呼びます。
- 自性身(法身)=仏の本体に仏の身体を見るもの、真如・空性・法性、本性 ※智慧は含まない
- 受用身(報身)=修行の結果成就した四智において仏の身体を見るもの(十地(修業の名)以上の菩薩しかいない)智慧そのもの
- 変化身(化身(応身))=成所作智(智慧の名)が凡夫の五感に仏身等を描き出して、衆生を救済する活動をなすもの
この三つの立場から仏を捉えることが大乗仏教の仏に対しての考えかたです。
小乗仏教との違い
大乗仏教と小乗仏教の違いは、信仰する難しさにあると思います。
大乗仏教はより門が広く設けられており、より多くの人を救う目的があります。
一方、小乗仏教は伝統に乗っ取った形式を重んじるために、多くの人が実践することを困難としています。
また小乗を「劣った乗り物」と呼ばれ、大乗仏教側からは軽蔑されてます。
上述した通り、大乗仏教は民衆から生まれ「衆生を救う」事を目的としているのに対して、小乗仏教は「個人を救う」事を目的としている点に大きな違いがあります。
まとめ
大乗仏教や小乗仏教といった括りがありますが、特に宗派が決まっていない人は、特に意識する必要はないと思います。
仏教は宗教の面から見る事も、学問として見る事も出来ます。
どの宗派にも良いところがあり、素晴らしい考え方があります。
自分に合う教えを、上手に吸収し、取り入れる事が出来る日本人としての寛容さ、懐の広さを十分に活かして、日々の生活に仏教を取り入れていきましょう。