「万物一体の仁」と「抜本塞源論」

陽明学で忘れてはいけない「万物一体の仁」と「抜本塞源論」があります。

この二つの教えは陽明学の王道中の王道です。

非常に腹落ちする考えを得る事が出来るので、学んで行きましょう。

「万物一体の仁」

完成された学問も後世になれば廃れていくものです。

良知の学は失われ、人々は自分の私利私欲を求めるようになり、世の中は乱れていきました。

王陽明は良知が失われた事を嘆き、これではいけないと強く感じたのです。

「万物一体の仁」とは、全ての人間に対して「仁」の心をもって接すること、交流することを説いています。

教え自体は簡単です。

五倫五常」をもって人としての道を歩いていくことに他なりません。

つまり私心や欲望によって荒んだ人間を危惧して、聖人たちが残した教えが「万物一体の仁」であり、元の教えを忘れてはいけない、思い出すのだと強く訴えかけているのです。

しかし聖人の教えは、字面では簡単ですが実際に行う事は難しいのが常です。

「万物一体の仁」で作られる世の中とは

私たちの仕事(職業)は明確に分けられています。

さらに分けられた仕事の中でも「高級の仕事」と「低級の仕事」が分けられています。

さらに「高級の仕事」、例えば弁護士や医者などの学力が高くなければ職に就くことはできない仕事が挙げられるでしょう。さらに「低級の仕事」ついている人間は自分を卑しむ事もあります。

このように仕事が分けられた(見下した)様相になっている原因は「社会の空気」と「お金」です。

まさに聖人が危惧していたことが私たちの目の前に体現されています。

では、「万物一体の仁」が体現された世界はどうでしょうか?

簡潔にまとめると、適材適所で事にあたり、誰もが自分にできる(適した)仕事を懸命に行い、どんな仕事に就く者も互いを尊重し協力し、また自分を卑しむことも、人の仕事を羨む気持ちも持たない(持たなくてよい)世の中です。

「万物一体の仁」を実践するには

良知は全ての人の心に存在し、君子は良知を発現させて困っている人々を救わなければなりません。

王陽明は言いました。

「孟子は「あわれみの心をもたない者は人間でない」と言っています。

天下の人の心は、すべて自分の心です。天下に狂気の人がいるかぎり、わたしもまた狂気に ならざるをえません。精神喪失の人がいるかぎり、わたしもまた精神喪失にならざるをえません」

つまり王陽明は、この思いをもって良知を再び取り戻し、実践する事だと言っています。

心の本体に戻って、良知を再発し、困窮した人々を救う、やむにやまれぬこの気持ちこそが「万物一体の仁」の実践なのです。

「抜本塞源論」(「顧東橋ニ答ウル書」)

悪の根源を絶つという意味を含む「抜本塞獄」という言葉を、王陽明が真の学問を無くし、功利に流れる者を戒め、改めさせるために用いた言葉が「抜本塞源」です。

王陽明の抜本塞源論はこれにつきます。

「世の功利的堕落と相まって、学問がますます本来の意義を失って単なる生活の方便に過ぎなくなり、自然さまざまな異を立て奇を争う主義者が簇生して、学ぶ者にしてみれば、実際万徑千蹊適くところが分明らない。まるで百戯の場に入ったも同然、右顧左眄に疲れて空しく精神を消耗してしまう。たまたま真の学を説く者があっても、彼等は内心その功利的迂遠さを嘲笑し、あるいは敬遠する。要するに、功利の毒が幾千年の間に人の心髄にまで浸み透って、ほとんど人間の根本的傾向になっている。これが社会の最も本源的病弊である。この本を抜き、源を塞がれば人間は救われない。しかしてよくこの事に当たる者は、真に豪傑の士でなければならぬ」

「傳習録」より

覇者の事業をしてはならない

孔孟の教えが時代とともに薄まり、真の学問を目指す人物がいなくなりました。

そして己の欲望を満たすために、天を欺き、人を偽って一時の利益を得ようとし、覇道を行く管仲、商鞅、蘇秦、張儀のような人物まで現れたのです。

結果、禽獣や夷狄と同じような状態に落ちこんで、道そのものも行きづまってしまいます。

儒学者たちは学問を復活させようとしましたが、学問が廃れて随分と時が経ってしまい再興させることは困難でした。

そして様々な教えを説くものが現れましたが、こうなっては何を信じて道を進めばいいのかわからなくなり、全ての学問を目指す者は、富強功利をはかる覇者の事業と同じ結果に終わったのです。

「伝習録」より

功利の学問を避ける方法

真の学問がなくなり、功利の害毒が人々の心髄にまで浸透し千年が経ち、知識を自慢し、勢力を誇示し、利益を争い、技能を見せびらかし、名声を求める者が溢れかえっていました。

かれらは、どのような職業についても更なる権力を求めるのです。

もちろん能力自体はあるが、彼らは学問の全てを自分の利益のために利用し、「天下のために働きたい」などと偽りをも平然と述べるのでした。

このような志で学問を行っているのだから聖人の学問をけなすのも当然である。なんと悲しい事でしょうか。

こんな時代に生まれては聖人の学問を究めることは困難ですが、幸いなことに人間の心にある天理は永久になくなることはないし、良知の明るさもどんな時代であろうと変わることはありません。

だから、わたくしの主張するこの「抜本塞源」の論を聞けば、必ずや、深く悲しみ、強い痛みをおぼえ、憤然として起ち上がる者が現われ、やがて江河を決壊したような激しい奔流となっていくに違いありません。 だが、これを期待できるのは、いっさいの権威を拒否して独力で立とうとする豪傑の士以外にはないのです。

「伝習録」より

まとめ

なんとも王陽明の慈悲と、その熱烈な思いが伝わってきます。

私たちが生きる現代も、知識や技術ばかりが重視されて、人間の持つ優しさや思いやりは軽視されています。

そんな世の中にした責任も私たちにはあるのでしょう。

こんな世の中を変えるには「無関心」である、「無関心」であった私たちの責任です。

心の学問はこんなにも人を感銘させるのかと驚くばかりです。

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