陽明学の基礎

陽明学の解説は少しやりましたが、「知行合一」などは理解しずらかったのではないかと思います。

そこで今回は陽明学の基礎をわかりやすく解説していきます。

陽明学で特に重要とされている「心即理」「知行合一」「省察克治」「事上磨錬」について、「伝習録」を通して学んでいきましょう。

これらは別々で考えるよりも、一連の流れで説明したほうがわかりやすいと考えます。

朱子学と陽明学

「性即理」と「心即理」

朱子学の考え方が「性即理」で陽明学の考え方が「心即理」です。

「心即理」を知る為に必要になるのが、四書の「大学」にある「格物致知」という言葉です。

「格物致知」の意味

朱子学の「性即理」

朱子学は「性即理」を唱え、これは事々物々あらゆるものに「理」があると認め、その「理」を窮めることが「格物致知」に他ならないという考え方です。

これを理解するには朱子にとっての「理」が何かを理解する必要があります。

「理」は人間関係で言う「仁」と言い換える事ができますが、朱子は「理」のことを「あらゆる存在の中にあり、あらゆる存在を正しい存在にするモノ」と考えます。

  • 人間で例えれば「人間は人間の中にある「理」のおかげで正しい人間の行動がとれる」
  • 出来事で例えれば「雨が降ったら地面が濡れる」事も「理」に逆らっていない事になる

つまり、「絶対的な真理であり、世界の規則である「理」に逆らうことは許されない」という事です。

このように「格物」とは「物事に格(いた)る」、この世の物事を「なぜそのようになっているのか」と突き詰める(窮める)、「致知」とは「「理」を知る事に到達できる」という意味です。

朱子学においての「格物致知」とは、「物事を突き詰めて考えた果てに、「理」を知る事に到達できる」と言えます。

朱子学の修業法

儒学の目標は「修己治人」で、つまり世間で言う「良い人間になる」ために自分を鍛えていく点にあります。

朱子学では「格物致知」を手に入れるために「居敬窮理」の姿勢で臨む必要があるとしました。

「居敬」とは、心を集中専一の状態に保つことで、 「窮理」とは、「理」を窮めることですが、朱子学の考え方で言うと「「理」に逆らわず、心を欲望に傾けるな」という事になります。

※朱子学で欲望は「理」から外れた物事を指し、例えば「偉いはずである上司の指示に従いたくない」という心は欲望であり、悪とされます。

※中江藤樹は朱子学の考え方を「教条主義になり果て、天理は固定化されて、自主的に自由に生きんとする心を拘束することになるとし、これを 「格法」(決まりきった仕方)と呼びました。

このように「孔孟の教え」として少し歪んだ形で、受け継いだのが朱子学の考え方です。

陽明学の「心即理」と「致良知」

朱子学に対して陽明学は「心即理」を唱え、我が心の「良知」こそが「理」であるとして、次のように主張しました。

  • 「良知」とは孟子の「性善説」に基づき人間には「惻隠の情」があり、このような心こそが「理」であるという事。自分の「良知」である心の声・判断。荀子の「性悪説」もある程度は認めている。
  • 「良知」が求める事を追求する事、育み養う事を「致良知」とも呼ぶこともあります。

我が心の良知を致すのが「致知」であり、事々物々みなその「理」を得るのが「格物」であるとしました。

つまり人間は元来「良知」を備えているので、努力(修業)することで「格物致知」を会得できるという事です。

まとめると、陽明学では「格物」「この世界の規則」ではなく、人間の内なる「良知」にあるとし、「致知」とは「万物の「理」を知る(窮める)こと」ではなく、それぞれの持っている「「良知」を十分に発揮させること」だと主張しています。

もしくは、朱子学は万物の一つひとつに「理」が存在することを認め、それぞれの物について「理」を知る(窮める)ことが「格物致知」であり、陽明学は人の中(心)に存在する「良知」を発現することが、「致(良)知」であり、それを万物に及ぼしていくことが「格物」であるとも言えます。

このように朱子学が著しく感情や意志よりも知性・理性の働きに優位を認める立場に傾斜しているのに対し、陽明学は何よりもそれぞれの自らの意志や判断に基づいて、自らの責任のもとで行動しようとする態度を重視します。

また「致良知」は王陽明が提言した良知心学の概念で「心即理」が進化して「致良知」という表現になりました。

「心即理」は朱子学の「性即理」に対するアンチテーゼですが、「心即理」は自分自身の心が道理に反すると朱子学者に認められなかった為に「心即理」説は、「心」に替えて、「孟子」に由来する「良知良能」から良知を採用し「致良知」としました。

陽明学の修業法

陽明学では、自らの内なる「良知」を発想することが「修己」の目標となります。

  1. 「省察克治」
  2. 「事上錬磨」(事上磨錬)

の二つを重視し、目標としています。

「省察克治」

「省察克治」とは 人は誰でも「良知」という素晴らしい心を持っているが、様々な人欲によってその働きを妨げられているとして、この人欲を一つひとつ点検して取り除いていくという努力のことを「省察克治」呼びます。

「最近、私の主張する「格物の学」を学んでいる者でも、耳から聞いて口から出す浅薄な知識に流れている者が多い。ましてや、初めから浅薄な知識に満足している者が、どうして、わたしの本意を理解できるのか。 天理人欲に関する微妙な問題は、ふだんに努力して探求してこそ、はじめて少しずつ明らかになってくるのである。いま、こうして口で天理を論じたても、少しのあいだに、心の中にはたくさんの人欲が頭をもたげているかもしれな い。このように、気づかないあいだに起こってくる人欲は、努力して洞察しようとしても、容易ではない。まして、口で議論しているだけでは、すべてを把握することは不可能だ。どんなに天理を論じても、実践することを怠り、人欲を論じても、除去することにつとめないなら、どうして「格物致知の学」と言えるのか。その点、朱子の学問は、結局のところ、心を無視し、義を外から借りてくるだけのことにすぎない」(伝習録より)

陽明学には「天理」と「人欲」という言葉がよく出てきます。

人間の心には本来「天理」が備わっていますが、「天理」も「人欲」のせいで歪んでしまいます。

つまり「天理」を発想するためには、「人欲」を取り除かなければならない。

この修業が陽明学の「省察克治」と呼ばれている修行法です。 

「事上錬磨」

「事上錬磨」とは毎日の仕事(生活)の中で自分を鍛えることで、 これが「修己」 にとって大切であるとし「時間がないからできない」などは話にならないとしています。

これを陽明は弟子との会話において

「何ごともないときには、心の働きも淀みがないのですが、何か事(問題)に出遇うと、そうはいかないのですが、なぜでしょうか」(伝習録より)

「それはただ静かな環境にばかり気をとられて、克己の修行を怠っているからである。それでは、事に対処した時たちまち心が動転してしまう。人間というのは、日常の仕事のなか で自分を磨かなければならない。そうする事でしっかりと自分を確立し、静時であろうと動中であろうと、いかなる事態になっても、冷静に対処することができる」(伝習録より)

「事上」とは毎日の仕事や生活で、その仕事や生活を通して自分を鍛えることが、事上練磨です。

事上練磨こそが、実践倫理であり、単なる仕事の「ノウハウ」や本・TVなどの「聞いただけ・見ただけの情報」は役に立たないと言えます。

「知行合一」

真知ハ即チ行ヲナス所以ナリ。行ナワズンバ、コレヲ知ト謂ウ二足ラズ

陽明学は実践に重きを置きますが、その中で忘れてはいけないのが「知行合一」 の主張です。

真の知とは、 行動への きっかけを含んでいる、行動が伴わなかったら、これを知と呼ぶことはできないと言うことを意味しています。

つまり、知る事は行なう事の始めであり、知る事と行なう事を別のものと見なしてはならない。行なう事と知る事がセットになって完成です。

この「知行合一」は「大学」の目的である「明明徳」(明徳を明らかにする)を実践するために王陽明は生み出した「心を実践する」ための教えです。

「知行合一」の教えが理解できない弟子は陽明に聞きました。

「人間は父には孝、兄には悌であるべきだとは知っておりますが、実行となるとできません。これは、知る事と行なう事が、別々のことだからではないでしょうか」(伝習録より)

陽明は

「それはすでに私欲によって分断され、知と行の本来のあり方を見失っているのだ。そもそも知るということは、必ず行なうことに結びつくのである。孝を知っている、悌を知っているという場合も、これと同じである。すでにそれを実行してこそ、初めて知っているといえる。それについて、いささかおしゃべりができるからといって、知っているとはみなされない。同じように、痛みを知るにしても、自分で体験して、はじめて知ることができるのである。 また、寒さを知るにしても飢えを知るにしても、自分でそれを体験して、はじめて知ることができるのだ。どうして知と行を分けることができようか。これが知と行の本来のあり方であってかってに分断できないものである。根本のところを把握しないかぎり、別のものだ、同じものだと言ったところで、なんの役にもたたないからである」(伝習録より)

また別で「知行合一」について弟子が訪ねると

「なぜわたしがそれを主張するようになったのか、根本の意図を理解してほしい。今、人々は学問するにあたって、知と行を別々のものとみなしている。それゆえ、ある思念が生じて、それが不善だと承知していても、まだ行なっていないからというわけで、それを禁じようとしない。わたしがこのような知行合一を説くのは、ほかでもない、少しでも思念が生じれば、それがすなわち行ないであるということ、さらに、そこに不善があれば、すぐさま徹底的にそれを克服し、いささかの不善といえども胸中に潜伏させないようにすべきことを知ってほしいからだ。これがわたしの主張の意図するところにほかならない」(伝習録より)

「良知があれば、おのずから知ることができる。だから知ることは易しい。だが、その良知を致すことが難しいのだ。それで、「知ることは難しくない、行なうことが難しいのだ』と言われるのである」(伝習録より)

「良知があれば、おのずから知ることができる。だから知ることは易しい。だが、その良知を致すことが難しいのだ。それで、「知ることは難しくない、行なうことが難しいのだ』と言われるのである」(伝習録より)

伝習録の中でも「知行合一」は圧倒的に重視されていて、問答の回数も多いです。

四書の『大学』でも、本物の知行とは「美しい色を好み、悪しき臭を嫌うように」と説いているように、美しい色を見るのは知であり、それを好むのは行にあたります。

まとめ

陽明学は実践してこその学問です。

少しでも日々の生活に陽明学を取り入れてはいかがでしょうか?

陽明学は実生活の中でも大いに役立ち、あなたの人生を豊かにしてくれることでしょう。

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