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人々は常に真実を探しており、世界で何が起こっているのかを知りたがっています。
そして私たちは将来の不安から、常に人生の問題に対する答えを探していますが見つからず、彼らは自分の周りの世界で何が起こっているのかを説明する方法として陰謀論の中に真実を見出そうとします。
陰謀論は、政府やその他の専門機関・企業に対する信頼の欠如によって助長されることがよくあります。インターネットのおかげで、人々は自分の主張を簡単に共有できるようになったため、陰謀論が広まっています。
陰謀論者は他の誰にも共有されていない秘密を見つけたと信じており、他の人にもそれを知ってもらいたいが為に、更に陰謀論を広めます。
思考停止に陥っている私たちは、どのようにして陰謀論を見破ればいいのでしょうか。
考えられる手段の一つとして、科学的証拠(エビデンス)があります。
*全体像*
エビデンスの危険性を理解する為のガイドを覚えることで、正しい選択を実現に近づける。
*背景*
- 情報の過多によって、陰謀論と事実の見極めが難しくなっている
*考えるポイント*
- なぜそのエビデンスの正しいのか
エビデンスも疑え
その道の専門家たちが、検証に検証を重ねた情報は、私たちを真実に導いてくれるガイドとして、十分な力があると言えます。
しかし科学的証拠(エビデンス)の中にも誤った情報があることは理解しておく必要があります。
なぜなら、エビデンスの中には検証が十分でない点、調査・実験対象が人種も違えば、価値観も違う、あらゆる観点から見れば、完全に信用できるエビデンスは存在しないのです。
気休めではありますが、物理学者であり科学ジャーナリストでもあるデヴィッド・ロバート・グライムスは私たちにヒントを与えてくれています。
- 「エビデンスの質」科学的な主張には裏付けとなるデータと、明確な方法論がある。したがって、 逸話や他人の証言が根拠の大部分を占める場合は、その主張は疑わしいとみなすべきである。
- 「権威」科学的主張は科学者の権威に依存しない。重みのあるエビデンスを示す科学的主張が受け入れられる。逆に、疑似科学の主張はエビデンスよりも専門家の社会的な権威に焦点を当てることが多い。
- 「ロジック」ある主張が行われるとき、その一部ではなく、すべての鎖が結びついていなければな らない。ノン・セクイトゥールがそこに見つかる場合は、提示された結論は疑わしい。複雑な状況や病状に対してたった一つの原因や治療法を提示しているような、極端に単純な主張にも用心したほうがいい。
- 「検証可能な主張」主張の正当性を測るもっとも重要なツールは反証可能性だ。 反証する方法がな い場合は、科学的ではない。同じように、科学は再現性を重視する。 第三者による調査で検証できないものは、疑似科学である可能性が高い。
- 「網羅的なエビデンス」仮説は、都合のいいエビデンスだけをチェリーピッキングするのではなく、エビデンスのすべてを考慮しなければならない。その日までに知られているすべてのエビデンスと一貫して矛盾しないとき、その主張はひとまず受け入れるに値すると考えられる。しかし、 存在するデータの重みに押しつぶされる主張には、なぜそうなのか、検証可能な理由を想定しなければならない。
- 「オッカムの剃刀」その主張は数多くの補足的な主張に依存していないだろうか? もし存在する データをよりよく説明できる仮説がほかにもあるのなら、補足的な主張を正当化するには、強力な証拠がなければならない。
- 「立証責任」主張をした者にそれを立証する責任がある。他人に反証する義務はない。立証責任を 人に預けようとする態度は、悪徳科学の危険な兆候だと言える。証拠の欠如を正当化するために独特な弁解をするのは、疑似科学の特徴だ。経験上、探求精神にもとづきなされる主張は、 正当化が目立つ主張よりも科学的だと考えられる。
【「まどわされない思考:非論理的な社会を批判的思考で生き抜くために」より】
この指摘からもわかるように、私たちが日常に受け入れている情報の中には嘘がありふれているのかもしれません。
もちろん自分は大丈夫と思っている人が一番危険で、常に情報について考える事を意識しましょう。
まとめ
私たちは常に将来の不安と戦っています。
将来のことは誰にも分らないし、不安は精神的を乱してしまいます。
つまらない商売をしている人間は巧妙な手口で、その不安にアプローチし、私たちに損害を与えます。
結局のところ私たちは、情報をただ受け入れるだけでなく、自分の頭で考えて正しい選択をしていく以外に、理想の人生は歩めないようです。