「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」
日本人は宗教をあまり重要視していません。
実際に過去に行われた調査によると60%以上は無宗教であると答えました。
しかし無宗教であるという調査結果以上に、葬式は仏教式でやっていたりする家が多いでしょう。
そんな仏教は「十三宗五十六派」と呼ばれ、それぞれが重んじる教えによって分かれています。
「十三宗」は【法相宗・律宗・華厳宗・真言宗・天台宗・日蓮宗・浄土宗・浄土真宗・融通念仏宗・時宗・臨済宗・曹洞宗・黄檗宗】の事を指し、「五十六派」は「十三宗」の教えから分かれた分派の事を指します。(※「五十六派」は宗教認定を受けるため二十八宗派に合同している)
また「十三宗」の中には「奈良仏教(南都仏教)」「密教」「法華」「浄土」「禅」のように、教儀・信仰が分けられます。
今回はその中でも浄土真宗(本尊:阿弥陀様)の開祖である親鸞の、弟子への教えがまとめられている「歎異抄」について学んでいきましょう。
歎異抄とは
親鸞聖人の教えが説かれている書物には「教行信証」などの書籍が現代でも読めますが、その中でも「歎異抄」は教えの本質を捉えられるには最適と言われる名著です。
歎異抄は二部構成からなっており、前半が親鸞の教えを、後半は弟子の唯円が批判する内容となっています。
この歎異抄は「異を嘆く」と読み、これは親鸞の教えが異なった意味として広まってしまった事を嘆いた事から名づけられました。
そのため始まりが以下のようになっています。
ひそかに愚案をめぐらして、ほぼ古今を勘ふるに、先師の口伝の真信に異なることを嘆き、後学相続の疑惑あることを思ふに、幸に有縁の知識に依らずんば、いかでか易行の一門に入ることを得んや。全く自見の覚悟を以て他力の宗旨を乱ることなかれ。よつて、故親鸞聖人の御物語のおもむき、耳の底に留まる所いささかこれをしるす。ひとへに同心行者の不審を散ぜんがためなりと、云々。【序章】
また著者が明確に記されていないため、誰が書いたかは問題視されていますが、今のところは弟子の唯円が書いたという説に落ち着いています。
親鸞の教え
親鸞の教えを理解するには、お釈迦様と阿弥陀様について理解する必要があります。
釈迦と阿弥陀如来
お釈迦様は仏教を説かれた人物として有名です。
その地球でただ一人仏の悟りを開いたお釈迦様が、仏の世界で見つけた仏様が阿弥陀様なのです。
また仏様はこの宇宙には数えられないほどに居て、その仏様たちの事を「十方諸仏」と呼び、この中にお釈迦様も数えられ、その「十方諸仏」の中でも王位に存在するのが阿弥陀様であり「本師本仏」とも呼ばれます。※十方とは大宇宙の事を指します。
そして阿弥陀様から弟子であるお釈迦様への教えはただ一つ「阿弥陀の本願」だけ、これを説くために仏教が生まれたのです。
阿弥陀の本願(誓願)
阿弥陀様は法蔵菩薩と呼ばれており、衆生救済のために48の願をかけて修業し、その願いが叶ったことで阿弥陀様は阿弥陀如来となったのです。
つまり阿弥陀の本願は1つではなく48の願いがあります。
その18番目の本願を「王本願」と呼び、普段使いの阿弥陀の本願は、この18番目の本願を指し、この王本願には「生きとし生けるもの全てを必ず助ける。絶対幸福にしてみせる。」といった願いが込められています。
では本願は誰に向けたものなのか、それは「十方衆生」、大宇宙に生きるすべての人々に対し阿弥陀様は約束したのです。
これを理解したうえで歎異抄に入っていきたいと思います。
歎異抄【第一章】
弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆへは、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへにと云々。【第一章】
親鸞は称名念仏の祖と呼ばれる法然聖人を師としているため、その教えも受け継いでいます。
そのため「南無阿弥陀仏」、信じ切る・救われたを「南無」、阿弥陀様に全てを任せてついていくことで救われる。
そして浄土真宗の教えも阿弥陀様を信じることで、改めて修業をせずとも仏になることが出来るという考え方です。
なぜなら仏教、親鸞の教えは唯一「阿弥陀の本願」だけだからです。
実際に親鸞も法然から「誠なるかなや、摂取不捨の真言」(教行信証より)と言われ、大いに救われました。
ゆえにこの第一章の教えには「阿弥陀様の本願は不思議なものでどんな悪人も見捨てない。つまり阿弥陀様の本願(誓願)が叶ったという事は生きるもの全てを救いとって下さる。」とあります。
歎異抄【第十一章】
一文不通のともがらの念仏申すにあふて、「なんぢは誓願不思議を信じて念仏申すか、また名号不思議を信ずるか」と、いひおどろかして、ふたつの不思議の子細をも分明にいひひらかずして、ひとのこころをまどはすこと、この条、かへすがすもこころをとどめて、おもひわくべきことなり。
誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて、この名字をとなへんものを、むかへとらんと御約束あることなれば、まづ弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまひらせて生死を出づべしと信じて、念仏の申さるるも、如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆへに、本願に相応して実報土に往生するなり。これは誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願名号の不思議ひとつにして、さらに異なることなきなり。つぎにみづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけさはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、申すところの念仏をも、 自行になすなり。このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども辺地・懈慢・疑城・胎宮にも往生して、果遂の願(第二十願)のゆへに、つひに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。 これすなはち誓願不思議のゆへなれば、ただひとつなるべし。【第十一章】
この章では、「人間が阿弥陀様の「本願(誓願)」と南無阿弥陀仏の「名号」を二つにわけて考えるな。もとより一つである。」と、私たちに教えてくれています。
これを理解するには浄土真宗において重要とされる「二種回向」という思想を知らなければなりません。
二種回向
二種回向とは往相回向と環相回向の事を指します。
往相回向=自己の功徳を一切衆生にふり向け、自他共に往生しようとすること
環相回向=浄土に往生してのち再び迷いの世界に還り来て、衆生を教化すること
そして往相回向には四法「教・行・信・証」と呼ばれる教えがあり、この「証」には「悟る」意味があり、浄土真宗では究極の仏果(仏と成った)とされています。
その「証」の内容として環相回向されるという考えが親鸞の教えです。
まとめ
このように仏教には人を静める、温かく包み込むような力があるように感じます。
仏や神と言われても日本人の多くは反応しません。
しかし、「神・仏・儒」の三教合一からなる日本人の思想には、大きな影響を及ぼしているのが仏教です。
奥が深すぎて説明することは困難ですが、触りだけでもわかれば仏教のありがたみを感じる事が出来るようになるのではいかと思います。
参考文献
歎異抄 改版 (岩波文庫)金子 大栄(校注)
歎異抄 現代語訳 金山秋男