四書五経

四書とは「論語」「大学」「中庸」「孟子」のことを指します。

中国三大宗教の一つである道教と並び、儒教の基本となる「論語」は孔子と弟子のやり取りの記録です。

その孔子には曾子と呼ばれる弟子がいました。

この曾子が弟子たちと作ったのが「大学」と「孝経」で、中庸をまとめたのが曾子の弟子であり、孔子の孫の子思という人物です。

そして子思の孫弟子である孟子が書いた孟子を合わせて四書と呼びます。

四書が成立したのは朱子学の時代からで、この四書を学べば講師の教えである儒教の本筋をつかむことができるとしました。

さらに四書の原点と呼ばれている前漢の武帝が選んだ「易経・書経・詩経・礼記・春秋」の五経を孔子が手を加える事で現在の形になったとされています。

この五経を学ぶことで儒教の真髄を掴むことができるとされています。

これを四書五経と言い、古来から中国の教科書とされてきました。

儒教の「儒」

儒教は漢の武帝の時代に国民思想・国家思想となり発達しました。

儒教の「儒」は荀子の説によると「懦弱事を畏る」の「懦」と同じ悪い意味で使われていました。

東洋哲学の研究者である安岡正篤は「本当の思想言論というものは真理・信念に基づいて行い、政治風俗を正し、国民の生活を守る根本の原理を明らかにするのが「儒」である」と言っています。

孔子と論語と孟子

論語の成り立ち

孔子は今から約2500年前に中国の春秋時代を生きた人です。

孔子は魯の開祖である周公旦という人を尊敬し「仁や徳の力で治める国を作りたい」と強く望んでいました。※周公旦=礼学の基礎を作った人物 

そして孔子の弟子たちとの問答や言動を集めた書籍が「論語」と呼ばれています。

孔子の生い立ち

孔子は紀元前551年に魯の国(山東省)に生まれました。

そして19歳の頃に結婚し、二十歳で長男の鯉(り) を授かります。

なかなかの苦労人ですが三十歳の頃から魯 で下級役人となりますが、この君主が斉に追われたため孔子も斉へ行くことになります。

そして40歳の頃、魯に戻り学校を開きます。ここでは根本的教養を高めるために「礼儀・読み・書き・音楽・弓術・馬術・算術」の六芸と五経について教えます。

52歳でまた定公に仕えますが、あまりにも政治を怠る君主に失望して弟子を連れ放浪の旅に出ます。

そこから13年間で8国を渡り歩き、自身が理想とする政治や社会を説いて回りましたが、時代も相まって受け入れられることはありませんでした。

そして君主からの命令で69歳で魯に戻り74歳で生涯を終えます。

論語とは

「学んで時にこれを習う、また悦ばしからずや。朋あり、遠方より来る、また楽しからずや。人知らずしていきどおらず、また君子ならずや。(学而篇)」

論語とは俗に君子論と呼ばれます。

君子とは中国で言う所の人格の価値についての意識を表した言葉ですが、主に「君主に仕える子供⇒貴人・紳士」を指します。

また、よく君子と共に用いる「士」がありますが、これは君子の同義語であり、孔子が理想とした君子が文徳を身に着けた武人であったことに由来しています。

しかし孔子は「国を治めるには「礼」が基本である」(礼楽政治)と述べ、武力行使を否定しています。

「論語」が作られた時代は春秋戦国時代であり、諸子百家と呼ばれる思想家たちが各々に独自の考えを表明して時の為政者に取り入ろうとしました。

これを防ぐために孔子の弟子たちは孔子の教えをしっかりと伝承するために儒教を統一させることが重要だと判断し、講師が亡くなった後100年以上経ってから作られ始めました。

「論語」には約500章、20篇からなる様々な教えが収められていますが、主に生き方や考え方、道徳などを中心に現代の私達にも役立てることができる内容になっています。

「論語」は中国が発祥ですが日本人にとっても身近な教養書でした。

孔子にはおよそ3000人の弟子がいました。

その中で天命という話に通じた弟子は顔回ただ一人でしたが、講師よりも先に亡くなってしまいます。この時講師は七十歳でしたが泣き崩れるほどに悲しんだそうです。 

しかし悲しみにくれた講師が72歳の時、曾子という青年(26歳)の弟子を得る事となるのです。

曾子はあまり優秀ではありませんでしたが、弟子の中で最も素直に孔子の教えを受け継いだ人物です。

「仁」とは人に対する思いやりの心と言いますが、このように孔子は「仁」に溢れる人物でした。

中でも「恕」の字には、母の心のような包容力などの意味があり、儒教では重宝されています。

この「仁」の教えを根幹として乱世を治めようと弟子たちがまとめた書物が「論語」です 。

論語の教え

孔子

孔子の教育目標が「君子」・「士」の養成であったことは述べました。

孔子が最も大切にしたのは「仁」人に対する思いやりの心であり、この「仁」には英雄的・非凡な人物などの優秀性も含んでいます。

その「仁」の心が目に見える形で現れたものが礼、親への敬愛の気持ちが自然と現れるものが孝、君主への忠臣が現れたものが忠、行動として目に見えるようになったものを恕としました。

そして孔子の弟子たちがこの教えを元にして、人間の徳を示した「五輪」をがあります。

  • 父子の親愛
  • 君臣の義
  • 男女の立場の区別
  • 長幼の序列
  • 盟友の信頼

さらに「仁・義・礼・智・信」の「五常」を生み出し、合わせて「五倫五常」と表現されることもあります。

「五倫」と「五常」の違いは対象を絞るか、絞らない点にあります。

この道を守ることが人の道であるとしています。

 孟子

「その心を尽くす者は、その性を知る。その性を知れば、則ち天を知る。 その心を存し、その性を養うは、天に事うる所以なり。残寿式わず、身を修めて以て めい これを俟つは、命を立つる所以なり。(尽心上篇)」

孟子は孔子の百年程あとに誕生しますが、孟子の考えは孔子とは異なります。

孟子の考えは天命思想と呼ばれ、中国古来の信仰である「天は万物を生み、人類を生み、万民のために賢人を選んで君たることを命ずる~略 天下は王家の所有ではないのだから、時至って革命の行われるのは当然である」のように革命的思想をもっていました。

つまり孟子は「士」・「君子」の養成を天民(貴人と庶民のような差別のない自由で独立した個人)とすべきだと考えました。

また政治に対しては覇道政治(武力主義や功利主義)ではなく王道政治(倫理主義)を主張しました。

「命を知らざれば以て君子たるなきなり。礼を知らざれば以て立つなきなり。言を知らざれば以て人を知るなきなり。(尭日篇)」

大学

大学の成り立ち

孔子の弟子である曾子が弟子たちと作ったのが「大学」です。

「大学」と「中庸」は「礼」を書いた「礼記」という書物の一編として収容され読まれてきました。

それを宋の時代、司馬光が「礼記」から抜き出し、程明道・程伊川の二程が世に出し、朱子が現在の形にしました。

「大学」は学問を何のためにするかを明らかにした書籍であり、王陽明などは「四書五経の中でも最も重要な書物である」としています。

大学とは

「大学」とは儒家の政治哲学の総合的な業績を記したものです。

孟子の後に出てきた荀子は「性悪説」(人間の本性は悪である)で有名ですが、彼は孔子の礼楽主義を政治哲学として認めていました。

しかし、この荀子の弟子にあたる韓非子や李斯子は法治政治や賞罰政治を提唱し、道徳政治は現代では通用しないと考えました。

こうして孔子・孟子の没後の政治は法治主義に傾倒していくことになります。

東洋哲学の研究者としても有名な安岡正篤も人間学講話にて、法治政治の難解さを述べ「聖人の政治はなんと簡単な事か」と嘆いたそうです。

この法治主義に示唆を与える立場である徳治政治の立場から、「論語」や「孟子」の政治論よりも改良されているのが「大学」です。

大学の教え

三網領、八条目

「大学之道、在明明徳、在新民、在止於至善。」

この通り大学の目的は「明明徳」「新民(親民)」「止於至善」の三点です。

  • 「明明徳」は「明徳を明らかにす。」=明徳とは明朗な徳のこと、自身の素晴らしい徳を見つけること。事物の細かいところまで徳を発見(明らかに)する事
  • 「新民(親民)」は「民を新たにす。」=民心を清新に保ち、堕落させないこと、自身だけにでなく、徳を人々に及ぼすこと。自己を新しくすること。
  • 「止於至善」は「至善に止まる。」=至極の善に到達してそこに留まる(止まる)、以上二つの状態を維持すること。

補足として「明明徳」の「明徳」は私たちが存在する世界、意識・無意識の世界などを含めた世界を指します。

さらに細かく分けると「徳」は「宇宙生命より得たるもの」の中の本質に当たります。

さらに「徳」の発生する本源を「道」と言い、「道」は宇宙・人生が存在し、活動している所以のものを指し、合わせて「道徳」と言います。

この自身の「徳」を見つけることが「明明徳」です。

「新民」は上記の通りですが「親民」には民に親しみを持つという意が込められています。

また「新民」には事物を研究し、進化する、モノが新しくなると言った語意も含まれます。

「止於至善」はすなわち「相対的境地を処理した絶対的境地に達した状態に止まる」。

そしてこの三網領を実践するために必要なものを「八原則」があります。

止することを知りて而る后定まる有り。定まってる后能く静かなり。静かにして而る后能く安んず。安んじて而る后能く慮る。慮りてる后能く得。物に本末有り。事に終始有り。先後する所を知れば則ち道に近し。

進歩していく過程で安定してくる。安定している状態は静かである。安定した状態の人間は心身・能力ともによくできている。安定してこそ能力は発揮できる。心を活動させることで徳を得る。

さらに「格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下(明明徳) 」の八条目です。

  • 格物・致知は事物の真理を窮めて、真なる知識を得る事を指します。
  • 誠意は格物致知による意識の明確化
  • 正心は誠意をもって志向を公正に保つこと
  • 修身は正心をもって自己の振る舞いを正すこと
  • 斉家は一家を治めること(一国を治めるに等しい)

治国・平天下(明明徳)は以上を備える事ができれば、君主・大臣として国を治める事ができ、泰平安楽の世になるということです。

つまり「大学」の教えは「修己治人」であり、儒学の目標が「修己治人」である由縁です。

「修己」とは自身の身を修める、人間としての徳を身に着けること、そして「治人」は政治を指します。

つまり「修己治人」とは社会で活躍するために必要な能力を身に着けることが目的です。

中庸

中庸の成り立ち

「中庸」は孔子の教えを、孔子の孫である子思がまとめた書物です。

子思が生きた時代は、孔子の教えがぼんやりとしたものになっていたので孔子の教えをより明確に書き記したのが子思でした。

これに「孟子」にはない体系的な道徳論を、孟子の「性善説」と古代儒教を結び付け説かれています。

先ほども述べた通り、「大学」は「礼記」という書物の一編として収容され読まれてきました。

これを「礼記」の中から引き抜いたのが六朝宋の戴顒で、朱子が現在の形にしました。

中庸とは

「中庸」は「論語」の中の「中庸の徳たるや、それ至れるかな」 から題として抽出したものとされています。

「中庸」では主に「中庸」の徳について説かれています。

「中庸」とは常に偏らず物事を判断する倫理的な概念として取り扱われています。

この考え方は社会を最も俯瞰した目で見ることができる能力であるとも言えます。

中庸の教え

「中庸」は「天の命ずる之を性と謂い、性に従う之を道と謂い、道を修むる之を教と謂うなり。」の「天」から始まります。

そして「性」「道」「慎独」など多くの教えがありますが、有名なのは第二十章の「天下の達道五。之を行う所以の者三。曰く、君臣なり。父子なり。ーーーー略」です。

この章では「五倫」と「三徳(知・仁・勇)」が重要で、「五倫」は人との交わりにおいて大切にすべき点、「三徳」では「五倫」を達成するために人が身に着けるべき徳について説かれています。

つまり「誠」こそが天の道であり、この道を「誠」にすることが人の道であると説いています。

このように儒教の倫理学的な側面を大いに担っているのが、「中庸」です。

「誠なるに自って明らかなるもの、これを性と謂い、明らかにするに自って誠なるもの、 これを教と謂う。 誠なれば則ち明らかなり、明らかにすれば則ち誠なり。」

書経

書経の成り立ち

「書経」は神話と歴史について書かれた書物です。

「書経」は本来、現実離れした神話などが収録されていましたが、周朝の人がそれをわかりやすく人間の聖賢たる尭帝や舜帝のように人の道に置き換えたものが「書経」です。

書経とは

「書経」の中には中国思想の源となる、政治思想や革命思想、倫理観などについて記述されており、歴史ストーリーとして以下の順に書かれています。

  • 「虞書」 堯舜の世の記録
  • 「夏書」 禹および夏王朝の記録
  • 「商書」 殷王朝の記録
  • 「周書」 周王朝の記録

が記録されていますが、歴史と見るかは本人次第となります。

「書経」によって伝えられる古代聖王の系譜は、四書五経を通して

【堯⇒舜⇒禹⇒湯⇒文⇒武⇒周公】で、最後の周公旦は孔子が敬愛した人物です。

礼記

礼記の成り立ち

「礼記」は礼節や心の在り方について書かれた書物です。

漢代の頃になると儒教に「礼」を重んずるようになりました。

またこの時代になると社会組織としての規模が大きくなり、「礼」は法と並んで整備される事となります。

「礼記」以外にも「周礼」「儀礼」と現代にも伝わる経書があり、この三点を合わせて「三礼」と呼びます。

礼記とは

「礼記」の中には、私たちが生活していく上でマナーと言われている事が、中国古来風に書かれています。

その中には身内への接し方なども幅広く書かれていますが、特筆すべき点は「大同思想」が説かれている点です。

「大同思想」は、後世の清における康有為が描いたとされています。

「大同」の世界では、人々は身内だけでなく、その他の人々をも思いやり、老人には居心地良い場所があり、壮年には働き場所があり、幼年には養育所があり、どのような人間も生活に苦しむ事がない。

人々は助け合い、生産したものは皆で使う。

だから悪事を行うものもおらず、家に鍵をかける必要もない。

こうした世界を「大同」と呼び、そうでない世界を「小康」と呼びます。

この考え方は老荘思想が編集過程で組み込まれたと見られています。

春秋

春秋の成り立ち

「春秋」は筆法について書かれた書物です。

本来は周代魯の国の宮廷年代記の表題でいたが、孔子が一部を抜粋して世に出したものが「春秋」です。

また、紀元前480年~730年程の間が「春秋時代」と呼ばれる由縁でもあります。

春秋とは

「春秋」の注目すべき点は、その独特なる「筆法」にあります。

また「春秋」は戦国から前漢にかけて製作された「伝」と呼ばれる注釈書から伝えられたもので主に「左氏伝」のことを指します。

しかし「伝」の中には『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』の3つがあり、あわせて「春秋三伝」と呼ばれています。

「春秋」は【年・時(季節)・月・日 – 記事】という体裁をとります。

この春秋からは孔子の思想を汲み取る事ができるため五経に入るに相応しいと言えます。

詩経

詩経の成り立ち

「詩経」は全305篇からなる中国最古の詩篇で、「詩」は西周初期から東周初期に作られたものが多く編集されています。

「国風」(160篇)「小雅」(31篇)と「大雅」(105篇)からなり、残りは題名のみ伝わっています。

漢代になると経書の研究が盛んになり「魯詩」「斉詩」「韓詩」の三つの異なる解釈をする学派に別れ、これを「三家詩」と呼びます。

詩経とは

孔子も「詩経」を学ぶ大切さをよく弟子たちに説いていました。

子曰「詩三百、一言以蔽之、曰『思無邪』。」(孔子が言った。『詩経』三百篇を、その中からただ一句で全部の性質を覆いうるものを選ぶとするなら、魯頌・駉の「思い邪無し(感情が純粋である)」という一句である。)ー『論語』為政篇

易経

易経の成り立ち

「易経」は占いを書いた書物です。

古代中国では占いが為政者の意思決定に重要な役割を担っていました。

また神託などの非合理性をできるだけ道徳的に、原理的にまとめた書物を「易経」と呼びます。

「易経」は、経文とそれを補足する「十翼(伝)」呼ばれる書を合わせた総称です。

易経とは

易の理論では、この世のモノは陰と陽の二種類の精気によって構成されているとします。

そして陰陽の割合により種類分けしたものが「八卦」です。

「八卦」は棒線符号(陽爻)と点線符号(陰爻)によって表されます。

易経の構成は六十四卦の解説、次に後世の学者による探求解説、最後に易の哲学について「繋辞伝」などの補足資料による構成になっています。

孔子は中でも六十四卦の解説までは関わっていますが、後世の記録については関わっていないと推察されています。(孔子は占いや神などには興味が無かった)

まとめ

ざっと簡単な説明をしていきましたが、どうでしょうか。

四書五経の全てを学ぶのは厳しいかも知れませんが、人生の教養として気になる書物だけでも読んでみてもらいたいと思います。

現代まで残っている四書五経は、歴史によって洗練されています。

自分の事を語っているだけの自己啓発本などよりかは、はるかに価値のある書物と言えます。

「四書五経入門」竹内照夫著 参照

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